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「がんこ武蔵野立川屋敷/中野邸」 立川市

  • 建物雑想記
  • 2020.08.30
玄関(左の入母屋造りが来客用で右側が内玄関)

玄関(左の入母屋造りが来客用で右側が内玄関)



今から15年以上前のことだったと思うが、故梅田隆久氏(本誌149号:旧梅田診療所の所有者)に栄町に保存工事を終えた名邸宅があると、中野邸に同行させていただいたことがある。それは溜息がでるような素晴らしい日本家屋だったことを覚えている。

お住まいは既に敷地内に別棟があり、住居としての役目は終え、地域の歴史を語る邸宅建築を後世に残すための保存整備工事であった。歴史的建造物の保存工事というと、文化財行政の中で助成金を活用するイメージが多いが、中野家は文化財の指定等の方法ではなく、元文化庁専門員の技術指導のもと、自ら保存整備工事を実施していた。駆け出しの建築士だった僕は、地域の文化を残すとは、こういうことなのかと深く感銘を受けたのであった。

その後、平成28年に中野邸は「がんこ武蔵野立川屋敷」として、建物の魅力を生かした懐石料理店にリニューアルされ、地域に親しまれる場所になっている。歴史的建造物の保存活用は、建築年の古さから老朽化という大きな壁に当たり、その価値を活用されないまま空き家の状態となっているケースが多々ある。中野邸は平成の大修理を経たことで、保存と活用のレールが敷かれ、建築文化を地域に開き、引き継ぐことができたと言えるだろう。

庭園から座敷を見る、屋根が重層になっているが、平屋建てである

庭園から座敷を見る、屋根が重層になっているが、平屋建てである



■六間型と四間型

中野邸の間取りは「六間型名主住宅」と言われている(がんこお屋敷のご案内・パンフレットより)。「むつまがた」と読み、民家の型の一つで、土間以外の部屋が六間ある民家を示す。中野家は19世紀半ばから南砂川で農業を営んできたと伝えられ、明治に入り養蚕業を始め、その後は養蚕農家として繭の取引や運送業を営み成功した。関東大震災で主屋が被災したため、昭和7年に元の建物の部材を再利用して建て替えたとされるのが現在の建物である。

近世の民家には二つの系譜があり、庶民(いわゆる本百姓)の住まいと、庶民を束ねる名主階層の住まいに分かれる。庶民の住まいは「休む、食べる、寝る」という生活の基本的な行為を行う空間と、農作業と直結した土間から構成される。一方、名主階層の民家は農家でありながらも役人を接待するための独立した接客空間が設けられている点に違いがある。

庶民の住まいの完成形は「四間型」の民家で、土間以外の部屋が「田の字」状に四部屋あることから、一般的に「田の字型」民家と呼ばれている。「四間型」でも床の間が作られたが、身内的な使用が主だった。「六間型」は二間が増えることで、独立した接客空間が加わったとイメージすると解りやすい。民家の出入口は農作業との兼ね合いから、土間に設けられた大戸(引戸)から出入りするが、六間型になると接客用の式台のある「ゲンカン」を新たに設け、来客の出入口が明確に分けられる。客は次ノ間の「デイ」、そして「オク」と呼ばれる書院造の部屋で接待を受ける。「ゲンカン」+「デイ」+「オク」は日常的には使わない部屋で主に「ハレ」の場として使われた。

がんこ武蔵野立川屋敷

多摩地域には各市町村に民家が移築保存されている。国立市の城山公園に移築された国立市指定文化財の「旧柳澤家住宅」は江戸後期に青柳村に建てられた民家で「四間型」の事例である。ザシキとオク、アガリハナとカッテの間仕切線がずれていることから、「食違い四間型」と言われ、整形の「四間型」になる前の過渡期の間取りである。立川市の川越道緑地古民家園に移築された立川市指定有形文化財「小林家住宅」は江戸末期に砂川村に建てられ民家で、こちらは名主階層の六間型民家の事例だ。来客用の玄関となるナカノマの前には沓脱ぎ石が用意されており、ナカノマ、トバノオク、オクが接客空間となっていた。

大きな土間を持つ四間型は「縦穴式住居」にルーツがあるとされ、六間型の接客空間は高床住宅に起源を持つ支配者階級の建築と位置付けられている。これらの民家は共に見学することができるので、是非、実体験として空間の違いを感じ取っていただきたい。

■中野邸の間取りと意匠

ここで中野邸の建築当時の間取りを見てみたい。基本構成は六間型の民家で、出入口は日常的に使う内玄関と接客用の玄関の二箇所があり、日常生活は土間と居間、茶の間、座談室の三間を使い、接客空間として玄関(がんこ立川屋敷の入口もここになる)、次ノ間、座敷が独立している。座敷の奥にある別棟の洋館は後に接客空間の一部として増築された。

内玄関には土間が広がり、土間境に大黒柱を建て、浴室(風呂)が内玄関の脇にあり、台所が土間の奥にあることも民家建築の定石通りである。中野邸の土間は既に生業の作業空間ではないことから、近世の民家に比べて小さくなっているが、民家の配置をそのまま踏襲しているところが興味深い。昭和初期といえども生活様式的には近世の延長にあったと考えられる。

左に見える柱がケヤキの大黒柱。ソファーの置いてある部分が当初の土間の部分と思われる。

玄関ホール:左に見える柱がケヤキの大黒柱。ソファーの置いてある部分が当初の土間の部分と思われる。



間取りは六間型でも、生活空間も含め各部の装飾が丁寧にデザインされている。昭和6年の上棟時の棟札が残っており、そこには「設計者 小田桐兼太郎」と書かれている。設計という職能が日本で確立するのは明治の中期まで待たなくてならないが、設計者の存在が近世建築との大きな違いと言えよう。接客空間は、最上級の「真」の設えで、特に天井の折り上げ格天井は、格式の高い意匠だ。外観は来客用の玄関が伝統的な入母屋造に対して、内玄関は入母屋ながらも数奇屋風の軽快な屋根を乗せ、絶妙なバランスをとっている。

民家では「ハレ」と「ケ」が明確に区別され、「ケ」の空間は質実剛健な内装で意図的な装飾は皆無に等しかったが、ここでは日常的な生活の場も装飾を諦めない設計者の意思が伝わってくる。そして昭和初期といえば「近代和風建築」、伝統技術を持つ腕の立つ職人が多く存在した時代で、その技術を集結させた名建築が多く建てられた時期でもある。中野邸は「六間型の流れを継ぐ近代和風住宅」と言うことができる。

■今だから見直したい民家建築

がんこ武蔵野立川屋敷を訪れたのは新型コロナウィルスが流行する直前の2020年2月の終わりだった。コロナの第一波が過ぎ去った昨今は「新しい生活様式」という言葉が出現し、試行錯誤の日々が始まっている。

立川市教育委員会が昭和58年にまとめた「砂川の民家」の中に民家が姿を消した考察として次のように記述されている。「開発による自然環境の破壊、農村における相互扶助組織の崩壊、そして近代的な生活様式の浸透などによって再生産の基盤を失った」と。戦後の経済成長とアメリカの影響を受けた生活様式によって、民家は過去のものとして置き去られたのであった。しかしながら、戦前の建築と改めて向き合うと、理にかなった生活があったことに気が付かされる。

例えば「土間」。民家では出入口は広い土間にあったが、これは土足のまま家事ができるだけでなく、流しや風呂にも直結してるので、外からの汚れを落とした上で、床の上に上がることができようになっていた。令和の新しい生活様式で求められるのは、外部の要素を部屋の内側に持ち込まないための、正に民家の土間のような緩衝帯である。

左:唐傘デザインの換気口 機能だけでなく、意匠まで高めたのが近代和風建築の特徴である 右側:縁側の欄間 ガラス欄間窓と欄間障子。共に開閉できる

左:唐傘デザインの換気口 機能だけでなく、意匠まで高めたのが近代和風建築の特徴である
右側:縁側の欄間 ガラス欄間窓と欄間障子。共に開閉できる



換気も重要な項目となったが、中野邸では窓や間仕切り等、随所に欄間が設けられている。欄間は開閉することで空気の流れをつくる間仕切り装置である。浴室の天井には唐傘デザインの換気口があり、これは温度差によって換気を促す仕組みであった。夏を旨に考えられた日本建築には、空気を動かす技術の蓄積があり、健康的な室内空間を維持してきたのである。
「新しい生活様式」にはコロナの問題だけではなく、毎年のように発生する自然災害のことも考慮する必要があるだろう。新しい考え方や技術に大いに期待したいところだが、民家建築に蓄積された型やローテクも次の時代のヒントになるはずである。

取材にあたり、有限会社マルト(建物所有者)の中野隆右氏とがんこ武蔵野立川屋敷店長の居谷元一氏には大変お世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。

■参考文献

・中野家住宅保存整備工事報告書/中野隆右/平成17年
・砂川の民家 第一部/立川市教育委員会/昭和58年
・住まいのふるさと/立川の歴史と風土 第二集/立川市教育委員会/平成10年
・国立市古民家復元の足跡/国立市教育員会/平成4年