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「養蚕民家のアトリエ 旧吉岡家住宅」/東大和市

  • 建物雑想記
  • 2022.11.28


ここは日本画家で知られる吉岡堅二が昭和19年から平成2年に亡くなるまで創作活動を行った場所で、現在は東大和市が管理し、春と秋に公開している。主屋はもとは東大和市(旧清水村)の名主であった池谷藤右衛門が明治中期に建築した民家である。吉岡が購入し、自宅兼アトリエに増改築したものの、屋根とアトリエ以外は大きな改変は行っておらず、現在でも建築当初の間取りを追うことができる。


玄関、食事室、階段などは吟味された一手間が空間を整えていて、古民家とは違う芸術家の住居を垣間見ることができる。主屋等の四棟は平成29年に国の登録有形文化財に登録された。現在の建物の紹介は東大和市が作成した案内に詳しいので、今回は建築当時の古民家の特徴を探ってみたい。


■広い土間
民家は四間型の間取りで、当初から長手方向が10間、奥行きが5間半もある大きな家屋だった。つまり建坪が約55坪もあったのだ。大黒柱が住居の中心にあり、大黒柱を境に土間と床のある居室に分かれ、土間は一階床面積の半分も占めていたことがわかる。なぜここまで広い土間が必要だったのだろうか。


玄関土間より座敷を見る ここからの眺めは現在でも豪農の民家のイメージである



東大和市高木に、江戸時代に建てられた民家の記録(『旧宮鍋作造家住宅解体調査報告書』東大和市・昭和62年)があり、参考になる。宮鍋家は江戸中後期頃の名主格の家で、主屋の規模が10間×5間、四間型(食違い)、大黒柱を境に間取りの半分を土間が占めており、旧吉岡家とよく似ている。建築当初を復元した平面図には土間に馬屋が二ヶ所明記されていたのだ。土間が広くなる所以は馬の頭数であった。


青梅街道沿いの農家では、馬を駄賃付に使っていた歴史があり、宮鍋家では明治10年代頃まで馬を飼っていたようだ。この民家を建築した明治中期には、既に馬はいなかった可能性が高いが、広い土間を持つことは豪農のステータスだったと考えられる。




機能性と美意識が厳選された空間となっている



■屋根の「気抜き」
民家を建築した明治中期の池谷藤右衛門の記録を『大和町史』(昭和38年発行)に確認することができる。明治26年の衆議院議員選挙権の有権者一覧に名前の記載があり、直接国税の納税額が高木村外5カ村組合の中で2番目に多い納税者であった。明治30年発行の『武蔵国三多摩郡公民必携名家鑑』にも名家として名を連ねており、職業は蚕業・茶製造となっていることから、養蚕で成功していたことがわかる。


主屋の屋根は現在は桟瓦葺になっているが、建築当時は茅葺屋根であった。また屋根には「気抜き」(屋根の頂部に設けた小屋根)が二ヶ所あったことが古写真から読み取ることができる。吉岡が入居した時期にはまだ気抜きが残っており、雨漏りにより撤去された後、昭和37年に桟瓦に葺き替えている。


気抜きは多摩の一般的な民家では見られない換気装置で、養蚕のために設けられた業務用の設備といっても過言ではなない。明治時代に入ると国を挙げて養蚕が奨励され、特に群馬県と埼玉県は養蚕技術の改良を牽引した地域であったことから、埼玉県に隣接する東大和も逸早くその影響を受けていたと考えられる。気抜きも養蚕技術の発展と共にこの地域にも出現したのである。旧吉岡家のような独立した気抜き屋根は、折衷育という明治中期に最先端だった養蚕方法の特徴とされる。折衷育では室内に養蚕用の火炉を設ける特徴があるが、火炉の存在は明らかになっていない。

■広い間口と高い軒
室内を蚕室として使う場合は、えびら(蚕を育てるカゴ)の設置場所と蚕の飼育空間を確保するため、部屋の間口が2間半以上必要とされる。旧吉岡家の間取りを見ると土間と隣り合う10畳は間口が2間半と広く、この上に気抜きが設置されていることから、養蚕を意識して作られた場所と言えるだろう。旧宮鍋家でも明治中期に養蚕が行われ、建築当初の間取りを間口が2間半になるように改修している。


養蚕は蚕種を購入して幼虫を育て、繭をつくる作業である。卵から孵化した幼虫が繭をつくるころになると、体積が1万倍にもなると言われ、広い作業場が必要となる。そのため民家での養蚕は飼育面積を確保すべく、間口の拡大と階を積層する工夫が行われた。


旧吉岡家では養蚕農家の特徴を高さ方向にも確認できる。土間床から小屋裏床までの高さが約5.1mあり、土間から1階床までが約0.7mなので、1階から小屋裏床までの高さ約4.4mの中に2階が作られていた。2階の天井高は2m程と、人が立って作業する最小限の寸法は確保されていた。ちなみに建築基準法では居室の最低高さを2.1mと規定している。方丈記の草庵も「高さは7尺(約2.1m)」とあり、昔から同じような寸法感覚を持っていたことがわかる。


旧宮鍋家は養蚕が盛んになる前に建てられた民家なので、2階の必要性は低かった。それでも名主格の家として使用人の寝場所用に2階を設けていた。そのため土間から小屋裏床までの高さを約4.3m確保していた(各階の天井高が2.1m以上確保できるギリギリの高さである)。一方、一般的な農家として知られる国立市古民家(旧柳澤家住宅)では3.7mとなり、土間に2階を設けることを想定しない高さである。


現在の旧吉岡家で2階があるのは食事室と玄関上部だけだが、アトリエや階段の吹き抜けの梁に床を支える痕跡を確認できることから、ここにも2階の床があったことがわかる。




アトリエ 東に天窓、南に高窓が設けてあるが、深い軒で直射日光がうまく遮られている



■吉岡堅二の主屋兼アトリエとして
吉岡がこの民家を選んだ理由として、田園暮らしへの憧れと、茅葺民家のどっしりとした佇まいが気に入ったからと言われている。アトリエとして使えるかどうかも大きなポイントだったのではないだろうか。


広い土間と2階を可能にする高い軒を見て、ここなば理想的なアトリエと住居にできると直感的に気がついたに違いない。そして、日本画家として間口2間半の10畳間の存在も目に適ったことだろう。


名主格民家の広い土間、養蚕民家の高い軒と広い間口、つまり、吉岡はこの地域ならではの上質な養蚕民家と出会ったのであった。


■参考文献
『旧農林省蚕糸試験場日野桑園第一蚕室保存修理工事報告書 モダン蚕室桑ハウス』令和3年・日野市