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「『旧高田邸』と国立の魅力」 国立市

  • 建物雑想記
  • 2015.07.16

旧高田義一郎邸01
旧高田邸との切っ掛けは、編集部に宛てた読者からの一通の手紙でした。住所を頼りに訪ねてみると昔から気になっていた洋風建築だったのです。建物名は知らなくても、街を行き交う人が気にかけていた建物、それがこの「旧高田邸」でした。軒線が水平に強調されたデザインで、建築界ではライト風(建築家F・R・ライトを意識した意匠)と言われ、一度みたら忘れられない外観なのです。しかしながら、この魅力的な洋風建築も2015年の春には取り壊しの予定があったので、建築史の専門家に旧高田邸までご足労いただきました。残念んがら先生方の見立ては、デザインや使われている技法等は上質ではあるものの、学術的に掘り下げるには希少性に欠くとのことでした。とは言え、国立という地域で見た場合は大学町ができた当初の住宅としての価値は高く、地元の文化遺産として記録すべきとアドバイスを頂きました。


そこで如何に記録に残すかが大きな課題となりました。文化財になっていないため、公費で記録することが難しい状態でした。また、旧高田邸は空き家でしたが、維持管理状態が良く、この空間で何かができそうな期待感がみなぎっていました。一人で悩んでいても前に進まないので、国立に詳しいデザインディレクターの萩原修氏と法政大学エコ地域デザイン研究所の長野浩子氏に相談しました(ご両人との縁も元を辿ると建物雑想記の繫がりによるものなのです)。地元で様々な活動している仲間に声をかけて頂き、11月(2014年)の終わりに「国立本店」、「国立歩記」、「くにたちはたけんぼ」、「くにたちかげん」の皆さんが集まりました。そして、さよならイベント「旧高田邸と国立大学町〜85年の物語〜」が開催の運びとなりました。プロジェクトでは【医学博士・高田義一郎】【国立大学町】そして【旧高田邸】の三本柱で展示会を行うことに決まり、メンバーが自分の得意分野で企画を盛り上げ、予想を超える素晴らしいイベントとなりました。イベントの内容はリンク先をご覧ください。私は【旧高田邸】の建物の実測・調査と、その展示を担当した。以下に今回の展示会でまとめた内容の抜粋を紹介します。


◆文化住宅・高田邸
旧高田邸を建築史の中で捉えると「文化住宅」という位置づけになります。明治以降、洋風化政策の中で人々の生活は和と洋の二重生活で混乱を招いていましたが、大正11(1922)年の平和記念東京博覧会・実物住宅展(文化村)において日本の新しい住まいが提案されたことから、この時代の新しい住まいを「文化住宅」と呼んでいます。単に洋風要素を取り入れるだけでなく、伝統的な慣習の縛りから開放された、合理的で機能的な生活を送るための住まいでもありました。文化住宅の主な特徴としては、① 居間・子ども部屋の誕生 → 接客本位から家族本位へ、② 椅子・家具を使った生活 → 起居様式の洋風化(ユカ座からイス座へ)、③ 照明や水廻りの改善 → 合理的で機能な生活。等が上げられます。しかしながら、伝統的な生活の見直しは簡単には進まず、広義には洋風な外観を取り入れた住宅のことを指していました。文化住宅は現在の住まいの原型と言えますが、広まるのは戦後まで待つことになります。


【外観】
軒線が水平に強調されたデザインで、特に庇が重なる一階の寝室は、水平と垂直を意識した意匠で、モダニズム建築の影響も見られます。全体としてはライト風(建築家F・L・ライトを意識した意匠)でまとめられています。玄関部分のスクラッチタイルや勝手口のクリンカータイル等、昭和初期特有の意匠も散見されます。
旧高田義一郎邸06

【間取り】
部屋名は高田義一郎氏の自伝より書き写したものですが、子供部屋が中心に配置された間取りになっています。さらに応接室は2階の北西に追いやられ、正に家族本位の住まいと言えます。現在のではこのような間取りは珍しく感じませんが、先駆的な間取りでした。文化住宅と言われた多くの建物が玄関脇に洋間を付属させたミニ洋館並列型住宅にとどまり、従来通りの接客本位な間取りだったのに対し、旧高田邸で家族本位の間取りが実現していたのは興味深いところです。しかしながら「居間」や「食堂」等の家族の集まる部屋がなく、個室化が進んだ配置で、このような使い方をしていたのか疑問が残ります。応接間も来客よりも編集者の詰所的な部屋だったとも考えられ、高田義一郎氏にカスタマイズされた間取りという見方もできます。
旧高田義一郎邸08
【グリッド】
旧高田邸の平面寸法は柱間が尺貫法できれいに割り切れていることから、江戸間であることがわかります。通り芯はトイレの北側が[い]通り、玄関の西側が[一]通りに番付されていました。柱間の基本は三尺(909ミリ)ですが、階段と廊下は三尺五寸(1060ミリ)と少し巾を広げ、ゆったりと通れるように工夫されていました。


【ホール】
玄関を入ると開放感のある階段・ホールに通じます。野趣あふれる自然木を使った階段や、梁が露わになった天井、そして廊下へとつながる漆喰の曲面天井は、英国のカントリーコテージに迷い込んだような期待感があります。この家の中で洋館としての完成度が最も高い場所となっています。
旧高田義一郎邸02
【一階寝室(和室)】
一階の和室は庭に出ることができるように、掃き出しの開口を設けることが一般的ですが、旧高田邸では庇の重なりのデザインを優先し、日本的な縁側をあえて排除したストイックな部屋になっています。また、この部屋は家の座敷的な位置付けですが、長押を廻さない簡素な造りとなっており、あくまでも寝室として設計されたようで、接客空間ではなかったと考えられます。
旧高田義一郎邸03
【二階書斎】
出窓を中心に窓枠や見切り桟が複雑にデザインされています。特に曲面と曲面が十字に交差する部分には上質な仕事が施されており、設計者の枠に対するこだわりが伝わってきます。その反面、出窓を設けながらも窓の桟が細かい等、外の景色に対する姿勢は消極的で、庭との関係性を絶っているようにも感じられます。書斎の西側半分には畳が敷いてあったようですが、ユカ座の空間としては窓や地袋が通常の和室よりも高く(床より七六〇ミリ)設定されており、ユカに直に座るには無理があります。これは他の和室でも共通することで、畳を敷きながらも、椅子座を視野に入れて造られたと考えられます。「和」とも「洋」とも言えない曖昧な空間ができ上がっており、過渡期の空間として設計者の苦労が伝わってきます。
旧高田義一郎邸04
【構造】
木造二階建て・在来構法で、柱や梁の接合部に金物を用いて耐震性を高めた造りとなっています。さらに床下には鉄筋コンクリート造の地下室を持つ特殊な造りでした。接合部への金物の使用や鉄筋コンクリートの採用は関東大震災の教訓を経た結果と考えられますが(高田氏は千葉で被災しています)、この時期に住宅規模での採用は珍しく、耐震性への強いこだわりを読み取ることができます。
旧高田義一郎邸07
【設備】
ホールの右端に設置された石炭ボイラー(SANKI KOGYO K.K. TOKYOの刻印有)で暖めたお湯をラジエーターに循環させ、暖房を行っていました。火鉢等の「暖をとる」暖房設備しかなかった時代に「部屋を暖める」という発想で暖房が行なわれていました。また、要所にガラリや欄間窓が設置されており、換気という考え方を設計に取り入れていたことが判ります。医師の自邸として、住まい手(家族)の健康を気遣った計画と言えます。※ボイラーとラジエーターは三機工業株式会社により、解体前に丁寧に取り外されました。社史の記録の一環として資料室に展示をする予定です。

【設計者像】
旧高田邸は昭和4(1929)年の建築であることは判明していますが、残念ながら設計者は定かではありません。外観はライト風とモダニズムに強いこだわりが感じられるものの、内部は内部として別々にデザインしていることから、建築家による設計というよりも、意匠を学んだ技術者が、場面場面で趣向をこらした住宅と捉えることができます。また、箱根土地による国立町の初期の分譲地ということから国立駅舎の設計に携わった河野傳の影響もあったと推測できます。構造や間取り、設備の仕様は、当時の一般的な住宅のレベルよりも高く、西欧への留学経験もある高田義一郎氏の意見がかなり入っていたと考えられます。

どのような建物であれ、いずれは解体の時が来ます。地域で愛されている上質な建物を如何に見送るのか、その方法が問われています。旧高田邸の一連のイベントは、建物の記録だけでなく、記憶に残る幸せなエンディングでした。築年数を経た良質な建物の持つ力を実感したと共に、国立を愛してやまない応援者が知恵を絞り脇で支えました。建物を通して様々な出会いがあり、国立を再発見する機会となりました。85年間、旧高田邸を維持管理し続け、最期は建物の公開を決めた所有者、さよならイベントを実現させた国立を愛する皆さん、そして旧高田邸の調査・展示を全面的に協力していただいた一般社団法人住宅医協会に心から感謝の意を表します。

【参考文献】
■消えたモダン東京 内田青蔵 河出書房新
■「みの虫」の一生 高田義一郎自叙伝(自費出版)

【関連リンク】
旧高田邸と国立大学町〜85年の物語〜
旧高田邸解剖図展
旧高田邸実測調査会