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「立川神の教会 〜音風景を訪ねて〜」 立川市

  • 建物雑想記
  • 2015.11.16

立川神の教会01立川神の教会(立川市富士見町)には2014年の秋に取材に訪れました。鐘楼を持つ端整な教会と出会えたことに心が踊りました。建物の内部を見学し、竣工当時から使われている上げ下げ窓などを実測して、建物との対話をしつつ取材を終えました。そろそろ自分の文章をまとめようと思い伊藤氏の原稿を読んでいると(このコラムでは前掲の「洋風建築への誘い」のカメラマン伊藤氏と同じ建物を取材し、それぞれの視点で世風建築の魅力をお伝えしています。伊藤氏がカメラマンの直感的な感性で建物を表現し、酒井が建築的な説明を掘り下げるような構成にになっています。伊藤氏の原稿の方が早く仕上がるので、違う切り口で建物の紹介を行なう、そんな役割分担となっていました。)通常「建築的な説明は後述の……」との一文が入るところが、今回に限りそのような記述がなく、建築的な紹介も含めて伊藤氏の原稿が完結していたのです。さて、どうしたものか……とにかくもう一度教会に行ってみようと、新たな発見を期待しつつ日曜日の礼拝に参加させて頂きました。


礼拝に出てみると、そこには僕の予想とは違った時間が流れていました。オルガンの前奏から始まり、お祈り、聖書の朗読、賛美歌、藤田洋牧師の説教、賛美歌、そしてまたお祈りで終わりました。原稿を書くための再取材のはずでしたが、礼拝の一連の所作が、何とも素直な気持ちにさせてくれました。それはミュージカルを観ているような感覚でありながら、戒めの言葉を頂戴しているような感じでもあり、取材のことを忘れている自分がいました。教会の空間は視覚的な空間以上に聴覚的な世界が広がっているこを知りました。説教に耳を傾けるという受動的な環境だけでなく、礼拝者自身もお祈りや賛美歌に参加することでその音風景の一員になれる場所が礼拝堂なのです。
立川神の教会02
立川神の教会の建物の特徴は何と言っても、鐘楼を持つその外観にあります。そしてその鐘楼の中に納められているのが「鐘」です。教会の鐘は、礼拝等の行事を知らせるだけでなく、定時に鳴らすことにより、時計の役割を果たしたり、さらには鐘の音による結界の表現や、信仰のよりどころの役割も担っていました。取材時には、玄関の入口に長梯子を立てて、鐘楼の中まで見させて頂きました。最上部には大きな鐘が四つも付いていました。外部から見ると、一段窄まった部分で、鐘の音がより伝わるように外壁には横ルーバーが設けられています。こここから遠くまで教会の鐘が音が聞こえたことでしょう。残念ながら立川神の教会では現在は鐘を鳴らしていません。30年以上も前から既に鳴らすのをやめていたそうで、鐘の代わりにチャイムで音を伝達しています。6時、9時、12時、17時、21時の計5回鳴らしており、時を刻む役目を担っています。昔の学校のチャイムのような音色で、懐かしく感じました。
立川神の教会05
立川神の教会の鐘が鳴っていた教会献堂時を想像してみたいと思いました。教会は1952年に米軍立川基地に程近い富士見町一丁目に献堂されました(下のセピア色の写真は1952年当時の姿です:立川神の教会創立60周年記念誌より)。当時は横田基地だけでなく、ファーレ立川付近に米軍基地のゲートがあった時代なので、立川神の教会には日本人だけなく、基地に駐在した多くのアメリカ人も礼拝に参加しました。正に戦後と同時に入ってきたアメリカ文化との接点をこの教会が担っていたと考えられます。毎週日曜に鳴ったであろう鐘の音は新しい文化の象徴的な音風景として、近隣の人々に受け入れられたのではないでしょうか。
TKK-05
礼拝堂の配置を見ると、入口は北側から入る動線になっていて、鐘楼はその真上に設けられています。入口から礼拝堂、奥に聖壇という軸線に沿った左右対称の平面形ですが、一般的に教会は西入の東西軸の配置にするこのに対して、立川神の教会は南北軸となっています。建築当初は礼拝堂の東側にも建物(幼稚園部分と思われます)が伸びており、L字型をしていたことがわかります。敷地の北東に広場が設けられている形で、教会の北側の立川基地との繫がりが強かったことかが配置計画からもうかがえます。1972年には老朽化した幼稚園部分が撤去され、敷地の北側に独立した幼稚園舎・牧師館が建設されました。日本で一般的に見られる園舎の南に広場のある配置へと変わりました。米軍立川基地の飛行業務が停止されるのが1969年なので、基地と教会との関わりも大きく変化したことが想像できます。そして、鐘楼の鐘もこの時期から鳴らなくなったようです。

立川神の教会04
教会付近の鐘の音風景を概観してみると、広福寺(昭島市福島町)と普済寺(立川市柴崎町)が鐘を撞いていたことが知られています。広福寺は現在でも月2回(2日と15日の朝6時)鐘を撞いていますが、普済寺は大晦日しか撞いていないようです。お寺の鐘は信仰の象徴ではありますが、農作業時に時間を知るという生活に密着した音としても親しまれていました。農地の宅地化で農家が減少しただけでなく、宅地に越して来た新住人からの苦情等で、毎日撞いていた鐘も1970年頃には撞けなくなったとのことです。教会の鐘とお寺の鐘が同じ時期に鳴らなくなったのは偶然ではないような気がします。教会が献堂された当初は、富士見町付近では教会とお寺の鐘が聞こえる、音風景として豊かな場所だったことが想像できます。しかしながら、ある時期からその音が騒音として捉えられるよになります。価値観の変化がこの間であったことが解ります。戦後の復興を遂げた日本は、憧れだったアメリカ的な生活を曲がりなりにも手に入れましたが、合理的な生活と引き換えに、日本的な土地との関わりを捨ててしまったのではないでしょうか。

私事で恐縮ですが、日野に引っ越す前は文京区音羽に住まい、千代田区の外神田に仕事場がありました。音羽は護国寺の門前町なので毎朝六時に鐘が撞かれていました。外神田ではニコライ堂の礼拝の鐘の音が聞こえる環境でした。お寺の鐘の音は体の内側からじわじわと癒されるような感覚で、教会の鐘は包み込まれるような安心感のある音として感じていたことを覚えています。都心の方が郊外よりも住宅が密集していることは言うまでもないことですが、地場の音風景と共存できる住環境があったようです。多摩でも地域の歴史性を加味した環境づくりがようやく活発になってきしまた。音風景の復活に期待したいです。

【参考】
■『立川神の教会創立60周年記念誌』 発行 立川神の教会(2015年)
■『平安京 音の宇宙』中川真 平凡社ライブラリー(2015年)