新着情報

「楕円の殿堂・旧多摩聖蹟記念館」 多摩市

  • 建物雑想記
  • 2018.02.15
旧多摩聖蹟記念館
旧多摩聖蹟記念館は多摩丘陵の尾根に昭和5(1930)年に建築された。設計は関根建築事務所の関根要太郎で、関根は多摩近辺では京王閣遊園地(昭和2年・調布市)を設計した建築家として知られている。弧を描いて織りなす造形が「記念館」にふさわしい堂々たる外観をつくっている。

 天皇が訪れた場所は「聖蹟」と呼ばれ、この施設も明治天皇のこの地への行幸を記念し、多摩聖蹟記念館として建設された。ちなみに、京王線聖蹟桜ヶ丘駅も記念館ができたことで昭和12年に関戸駅から改称されている。昭和15年発行の旅行案内書「東京地方」には、多摩聖蹟記念館が観光名所の一つとして紹介されており、拝観料(10銭)を払って入る施設となっていた。明治憲法下の天皇の位置付けがわかり興味深い。


 建物の内部に入ると、外観からは想像していなかった空間が待ち構えていた。弧を描いてた曲面が楕円だったのだ。楕円のホールの外側にも楕円状の回廊が周り、ホールの中央部には一周り小さい楕円形の吹抜がある。楕円で構成された空間は平面と高さ方向に積層され、劇的な中心性を作り上げている。そして、その中央に明治天皇騎馬像の銅像が設置されているのだ。間取り図を見ると出入口・テラスの列柱も楕円上に配置されているのが読み取れ、左翼の喫茶、右翼の事務室まで含めて、見事な左右対称の平面形となっているのだ。正に楕円の殿堂と言えよう。


 記念館は鉄筋コンクリート造で建てられている。現在では珍しい構造ではないが、関東大震災以前は西欧様式建築の大半が煉瓦造で建てらていた。震災で煉瓦造が壊滅的な被害を受けたことから、震災以後、耐震性及び耐久性に優れた構造として、鉄筋コンクリートが採用されるようになった。それでも昭和初期に多摩地域で鉄筋コンクリート造が建築されるのは珍しく、さらに丘陵に建てるのは困難を要したと推測されるが、記念館を恒久的な建物にしたいという想いが構造からも伺うことができる。
建物の外観のデザインの特徴としてオーストリアの「セセッション」とドイツの「ユーゲントシュティル」の影響を受けていると記念館のパネルに解説されている。これはロマネスクやゴシックなどの過去の建築様式から切り離して、新しい造形を生み出した建築表現のことで、大きく捉えれば「アールヌーボー」の影響を受けていると言っても差し支えない。
外部や内部の列柱のデザインも実に簡素で、極力装飾を排除し、壁や柱の構成で建物全体をデザインしていたと言える。唯一の装飾はスペイン瓦(この瓦は屋根と壁の取り合い部分の装飾で、瓦で屋根が葺かれている訳ではない)であるが、こちらはアクセントとして軒線を整える役割を担っている。そして、縦長窓。この窓のプロポーションは洋風建築であることを強く主張しているのである。しかしながら、平面形の「楕円」に関しては、デザイン性だけでは説明することができない理由がありそうだ。
旧聖蹟記念館


 建物に曲線を用いる場合は、正円から引用することが多い。緩やかな弧であっても、半径の大きな円から引っ張ることで対応ができるからだ。円は「定点からの距離が等しい点の集合から作られる曲線」と、単純な形なのに対し、楕円は「平面上のある二点からの距離の和が一定となるような点の集合から作られる曲線」のことで、実際の建物で複数の楕円を作るとなると難易度が高い。そのため、強い意思を持ってデザインしないと実現しない曲線なのである。
しかしながら、この楕円を多用した時代が古典建築様式にはあった、バロック建築である。主に17世紀から18世紀に使われた様式で、ルネサンス時代の端正な正円による曲線ではなく、楕円やねじれた曲線を用いて劇的で強烈な印象を作り出そうとした。バロック建築は教皇や国王などの強力な権威や力を示す表現として用いられたのである。


 ここで日本に入ってきた欧米の建築様式を振り返ってみたい。日本の建築学の父と呼ばれるコンドルが工部大学校で教鞭を取るのが明治初期の19世紀末のことであった。本来の建築様式は時代ごとの建築の特徴を表現するものであったが、当時欧米では古典様式のリヴァイバルを経た折衷様式の時代だったため、日本に伝えられた建築様式も建築のコンセプトに応じて様式を使い分けることを前提としていたのである。
ところが、多摩聖蹟記念館が建てられた1930年はアールーボーから、さらに機能的・合理的な建築を目指すモダニズムに移行する時代で、デザイン的には既に様式建築の時代ではなかったのである。そのような時代に、建物の用途としては国の君主であった明治天皇の記念館を作るという様式的な要望を具現化する必要があった。つまり、当時の思潮よりも建築思想の方が時代を先取りしていたと言えるのではないか。
そこで建築家が思いついたのは外観と平面形のデザインコンセプトの分離だったと推測できる。装飾的には「セセッション」と「ユーゲントシュティル」的な考えで様式建築を否定しつつも、平面形は左右対称性と同心円上の配置で中心性を高めた。そして、それらをバッロックの楕円に入れることで、明治天皇の顕彰を表現したのではないだろうか。


 取材を終えホールのテーブル席で寛いでいると、明治天皇騎馬像の台座の御影石に一部色の違う部分(改修の痕跡)があることに気が付いた。銅像の台座は昭和初期の竣工時は腰の高さまであったところを、多摩市の指定有形文化財「旧多摩聖蹟記念館」として改修した時に現在の床に近いレベルまで下げたとのことだ。「多摩聖蹟記念館」の時代は明治天皇騎馬像は参拝の対象として、ただただ、見上げることしかできなかったことが想像できる。
旧聖蹟記念館


 建物はその時々に求められる用途や目的が変わることがあるが、デザインや間取り、痕跡から、様々な物語を垣間見ることができる。記念館は改修後は公園を訪れた人々の憩いの場として公開され、ホールでは喫茶サロンのコーヒーを飲めるようになっている。騎馬像の前で飲食など建築当時では考えられないことと思うが、平成の私達にとっては嬉しいサービスだ。一服しつつ、建物と対話してみてはいかがでしょうか。


【参考文献】
■旧多摩聖蹟記念館パンフレット/多摩市教育委員会
■東京地方/日本旅行協会発行/国立国会図書館デジタルコレクション
■消えたモダン東京/内田青蔵/河出書房新社
■西洋建築様式史/2010年/美術出版社