今回紹介する建物は日野市の広報誌 (広報ひの)で、「西平山築150年の古民家活用」と空き家の活用例として紹介されていた建物で、見出しの「築150年」という年代に目が止まったのである。150年と言えば、今年は明治維新から150年の記念すべき年だが、その時代の建物が現在でも活用されているのは珍しいと思い、気になっていた。
私の知る限りではあるが、日野市内では、文化財に指定されている日野宿本陣の建物が文久元(1864)年の建築、つまり築154年であり、明治元年以前の民間の建物となると、ほとんど残っていない可能性もある。そのような中で「空き家」だった古民家が、若者の力によって「活用」されるようになったことは素晴らしいニュースであった。
古民家の在る西平山の旧中込はJR中央線と浅川の交差する東側に位置し、畑や曲がりくねった道が多く、のどかな風景が残る地区だ。浅川沿いに江戸時代から続く街道(馬力街道や米つき街道と呼ばれていた)があり、浅川の渡しとの辻に集落があった。現在でも古い建物や馬頭観音等の石仏が残る、歴史を感じる場所でもある。集落の大正時代に建てられたとされる養蚕施設(撚糸工場)を実測調査する機会があり、その縁で日野市の郷土資料館の秦哲子氏、都市計画課の櫻井芳樹氏に仲介いただき古民家の取材へと繋がった。
現地に行くまでは、築150年という年代から茅葺き屋根の昔ながらの古民家を想像していたが、瓦葺きの寄棟屋根の建物で、写真のように古民家と言うよりも和モダンな建物であった。管理人の稲村行真氏の案内で建物の中に入ると、大黒柱のあるようないわゆる田の字型の古民家ではなく、古民家をイメージしながらも、型に捉われない自由な空間が広がっていた。現在(※2018年3月)この古民家は個室をシェアハウスとして利用し、さらに休日は一階の八畳間や広間を「子供食堂」や「寺子屋」等の地域の交流の場としても活用しているとのことだ。
間取りは、八畳の座敷を中心に、東側に玄関、北側に水廻り、南側に10帖の板の間が配置されている。10帖の板の間の西側に2階へ上がる急な階段があり、2階には六畳と四畳半の続き間が設けられている。1階、2階共、座敷には「床脇」のある本格的な床の間を造っていることが、この住まいの大きな特徴と言える。特に2階は東側の壁一面が床の間になっていて、二間を続き間として使うことを意識した、接客用の場として造ったことが想像できる。また、現在は使われていないが、北側は便所となっており、磨き丸太の柱を使った上質な和式便所が残っているので、ここも一見の価値がある。
150年の古民家を一通り見てきたが、玄関の存在や(古民家は土間が出入口を兼用し、いわゆる玄関がない)、間取りを見る限りは、江戸時代の延長というよりも、近代以降の住宅と推測される。床の間の配置や凝った造りは、封建時代の役人の来客を意識したものではなく、純粋に客人の接待の空間、そして当主の楽しみとして、造ったような印象を受けるのだ。特に2階の床の間の意匠や銘木の使い方は、普請道楽的な要素も見受けられ、近代和風建築と言った方がしっくりといく。2階の北側の六畳は、後の改修で床の間を押入れに改修しているが、北側の六畳を「床」、四畳半を「床脇」として、二部屋を続き間で使った時の迫力は他に類を見ない粋な空間であったに違いない。また、接客が終わり、客人が階段を降りようとすると、正面の壁に開けられた扇型の透かしが浮かび上がる仕掛けがあり、家路につく方々を楽しませていたことであろう。
「日本住宅建築図案百種」(大正8年、金子清吉著、伊東忠太校閲)は、大正時代に生活の欧米化が求められる中で、日本的な住宅の在り方を示した図案集である。この資料によると当時の住宅では玄関は畳敷きが一般的で、その近傍に女中部屋を設けるケースが多かったようだ。古民家の玄関を改めて見ると、式台の上やその周辺の下がり壁に鴨居があるので、現在はフローリングの五帖の空間も、当時は障子や襖で仕切られていたことがわかる。つまり、式台の西側に二畳の玄関、その北側に三畳の部屋があったと推測できる(三畳は女中部屋ではなく、炉があり、鉄瓶が吊るされていたようだ)。建物を見ることで建築当初の姿が判ってきたが、築150年という築年数の把握まではできず、不明のままであった。建物所有者の高橋壽子氏に直接お話を伺うことができ、ようやく謎が解明できた。
壽子さんの家は七生村の村長を二代担った家系で、祖父の高橋茂吉氏が、第五代村長(大正6年から大正14年)を務め、その後の隠居所としてこの民家を建てたとのことだ。つまり、古民家が建てられたのは早くても大正14年ということになる。それでは築93年にしかならないが、西平山の民家の建築時に砂川の民家の一部を移築したとの話なので、砂川時代から合わせると150年程度となるようだ。2階の続き間の使い方も気になるところだが、お客さんを招いてお座敷遊びをした部屋ではなく、むしろ、浅川と山間に沈む夕日を眺めて、静かに楽しむような場所だったそうだ。
昭和初期になると都会の喧騒を離れ、豊かな自然と清流を求めて浅川の豊田側の厓線に別荘が建てられるようなになった(鮫陵源もその延長にあったと言える)。平山の古民家は、蚕業とは直接関係しない隠居所として建てられた点で、別荘文化の走りと言え、そのような時代が日野にあったこと伝える数少ない建物である。古民家の活用でもそのような視点を加味できると、一層味わい深い活動になるのではないだろうか。
【参考文献】
■『七生村史』昭和38年
■『鮫陵源とその時代』ひらやま探検隊/平成6年
■『水の郷 日野』法政大学エコ地域デザイン研究所/平成22年