間取りは10間×5間の田の字型四間取りの民家で、大黒柱が2本あるのが特徴だ。明治3三年(1872)に河内甚平(多磨村の七代目村長を務めた)が建てたと言われている。以降代々の当主が民家と庭園を大切に維持してきた。カフェへの改修時に施工業者がまとめた建物の沿革を引用すると、昭和6年(1931)草葺屋根を瓦屋根に葺き替え、昭和36年(1961)土間を洋風ダイニングキッチンに改装、平成8年(1996)に瓦屋根を金属屋根に葺き替え、平成21年(2009年)専用住居からカフェ併用住宅にリフォームと、度重なる改装の末、現在の形になったことがわかる。
趣のあるガラス引戸から中に入ると、古民家特有の力強い小屋組に圧倒される。「おもだか」は河内直子さんと韓国出身のご主人・申泳均さんによる古民家カフェで、喫茶と一緒に韓国の家庭料理を味わうことができる。屋号は河内家の家紋「まるにたちおもだか」にちなんでいる。土間と二本の大黒柱の奥にある板の間がカフェとなっている。共に吹抜けのある解放的な空間だが、大黒柱を境に「和」と「洋」に分かれているので、二通りの空間を楽しめる。
土間空間は昭和36年の改装時に洋間に変更された部分を基本にカフェにリフォームした場所で、その時に作られた赤煉瓦積みの暖炉が残されている(残念ながら現在は使われていない)。マントルピースのある土間は日本の古民家と言うよりも避暑地のコテージにいるような落ち着きがある。
大黒柱の奥にある板の間は、皆がイメージする古民家空間だ。昭和の改装で撤去した囲炉裏もカフェへのリフォーム時に復元されている。思わず見上げてしまう程の巨大な吹抜けではあるが、現在見えている小屋組は和小屋(梁の上に束を立てる組み方)で、昭和6年に草葺き屋根を瓦葺きに葺き替えた時に組み直されたものと推測できる。建築当初は和小屋ではなく叉首組(合掌造)で、現在よりも屋根勾配がきつく、もっと高さのある小屋裏空間があった。小屋組の梁を注意深く見ると、梁の側面をリズミカルにはつった跡があるのに気がつくと思うが、これは手斧(平刃)で削った跡である。このような手斧の跡のある梁は、機械製材される前の古い時代の材料と言え、建築当初の明治3年のものと考えられる。
小屋組の一番下の梁は、側面がきれいに製材されており、比較的新しい材であることがわかる。大黒柱との取り合いにも羽子板ボルトという金物が取り付けてあることからも、昭和36年の改装時にこの梁を入れたのではないだろうか。このように小屋組には、明治から昭和への建築技法の変遷を見ることができる。また、大黒柱には襖の高さで穴を埋めた跡があるので、ここに鴨居(差鴨居)があったことがわかる。大黒柱の左右に部屋が分かれていたところを、鴨居を撤去して一部屋にしたのである。
「おもだか」は明治3年の建築から改装を繰り返してきた建物をであることは既に述べたが、昭和44年(1969)にまとめられた府中市史編纂時の「府中市史近代編資料集第一集 府中市の現存草葺民家調査集」に建築当時の間取りを知る手がかりがあった。この資料は武蔵野美術大学生活文化研究所の宮本常一教授が中心となり調査記録をまとめたもので、当時既に数少なくなっていた、市内の草葺民家33軒を記録した貴重な資料である。旧人見村でも、5軒の民家が記録されているが、昭和初期に草葺きを瓦屋根に葺き替えていた「おもだか」は残念ながら対象になっていなかった。
民家調査集の中で親戚筋にあたる河内武家住宅の間取りが10間×5間の田の字型四間取り、大黒柱が2本と「おもだか」と特徴がよく似ていた。市史編纂時の調査対象の民家の中で大黒柱が2本ある民家は4軒しかなく、河内武家の間取りを元に、「おもだか」の間取りをなぞると、神棚や床の間の位置もほぼ一致することから、同じ大工によって建てられた可能性があった。「おもだか」の当初の間取りを推測すると上図のようになる。
昭和44年の市史編纂時に調査した33軒のうち現在でも残っている民家はほとんどなく、調査の対象となった、二軒隣の草葺民家は解体時の昭和58年(1983)に府中市の指定文化財に指定され、府中市郷土の森博物館に移築・復元されている。そのような時代の流れの中で「おもだか」は先代が上質な材料と確かな技術で建てた建物を、生活スタイルの変化に合わせて、その都度手を加えてきたことで、世代を超えて使い続けることができた建物と言える。
東京の近郊において、明治時代の建物が現在でも現役で使われていることは極めて希で、この古民家は明治から昭和にかけた、地域の建築文化の変遷を知る建物として歴史的な価値が高い。また、多くの人々が集えるカフェになっており、料理と共に歴史的な建築を味わえる場所として貴重な存在である。これからも地域の遺産として、次の世代へ引き継いでいただきたい古民家である。