「多摩平団地テラスハウス/集合住宅歴史館」八王子市
- 2021.05.22
人々が密集して生活する都市部の住宅に求められた使命は、建物が燃えないこと、衛生的な生活ができること、そして高層化であった。多摩地域でも中心市街地では大正時代に入ると耐火性の高い鉄筋コンクリート造の建物が出現するが、これは一部の公共性の高い建築だけで、住宅は木造が基本だった。そのような状況を一転させたのが戦後の団地開発であった。
多摩地域では昭和31年に日本住宅公団(現UR都市機構)の牟礼団地を皮切りに多くの団地やニュータウンの開発が行われた。初期の開発から60年を経た現在では、団地も地域の風景の一部となり、また老朽化から、初期に開発された団地では建て替えが進んでいる。昭和37年建築の北区の旧赤羽台団地(日本住宅公団)では令和元年に団地として初めて国の登録有形文化財に登録された。団地も文化財に登録される時代になったのである。そこで今号から数回に分けて「団地」建築について見ていきたいと思う。
八王子市にあるUR都市機構の集合住宅歴史館をご存知だろうか。JR北八王子駅から徒歩10分の距離にある展示施設で、歴史的に価値の高い集合住宅が移築復元されている。今回は多摩地域から唯一、集合住宅歴史館に移築された日本住宅公団の「多摩平団地テラスハウス」を紹介したい。
多摩地域の住まいの型を概観すると、近世までは田の字型の民家が一つの完成形であった。その後近代になると、中流層(給与所得者)の住宅として、武家住宅(書院造+数寄屋)の影響を受けた玄関や床の間、二間続きの和室を持つ和風住宅が建てられるようになり、この流れは戦後まで続いた。そして経済高度成長期を経て、現在の住まいへと変化していくが、その過程には国の住宅政策の影響がある。
大正13年に同潤会が設立され、関東大震災後の復興住宅を建設した。昭和25年には住宅金融公庫が設立され、持家促進政策がスタートした。低所得者向けの賃貸住宅の供給には昭和26年設立の公営住宅が担い、そして、昭和30年には日本住宅公団が設立され、戦後の復興から高度経済成長期に不足したの中堅勤労者向けの都市型住宅が建設されたのである。
都市型住宅は農村部の民家とは違う形態で、庶民の住まいの大半は賃貸木造長屋であった。復興住宅では、長屋の間取りを見直し、狭くても食寝分離、就寝分離が可能な住まいが考案された。戦後は復興と共に都市部に労働力が集中し、その住まいを提供するために多摩地域にも大規模な団地開発が行われのである。
「団地」の開発はその規模の大きさから、都市計画の中で語られることが多い。これは団地開発の目的が住戸の大量供給であったことから、個々の住戸よりも団地の立地や、棟の配置が重視されたからである。逆に住戸単位では、徹底した仕様の標準化、工法の合理化が行われた。一方で「団地」は新しい都市生活のモデルを担っていた側面もあり、住宅の不燃化、そしてキッチン、トイレ、浴室などの衛生設備には最先端の技術が採用されたのである。
日野市に開発された日本住宅公団の多摩平団地を例にそのインパクトを見てみたい。写真は多摩平団地が開発される前後のもので、畑が団地に変わった様子がよくわかる。多摩平団地は昭和33年から入居が始まり、全2792戸からなる大規模な開発であった。当時、七生村と日野町は八王子市への合併に揺れていたが、結果として七生村が日野町と合併し、日野市として歩む道を選択することになる。そこには多摩平団地の開発が大いに影響していたと言われている。昭和30年の国勢調査によると日野市(日野町+ 七生村)の人口は2万7305人で、その10年後の昭和40年の日野市の人口は6万7979人となり、この10年の間に人口が二倍以上に増えたのである。労働人口の増加は、行政にとっても大きな活力となった。
多摩平団地は住棟の老朽化により、建て替え工事が行われ、平成14年からUR賃貸住宅「多摩平の森」として再生された。中層棟(地上4階建て)の一部は現地で改修され民間の賃貸住宅として活用されている。テラスハウスは全て解体されたが、その一住戸が集合住宅歴史館に移築復元されたのである。
多摩平団地テラスハウスは日本住宅公団の初期の低層住宅で、2階建て庭付きの住戸が6戸連続する長屋形式の鉄筋コンクリート造住宅であった。食寝分離、就寝分離を実現するために、独立した台所と個室を3部屋有する「3K」の間取りであった。このように間取りを「部屋の数+LDK」と表記する方法は公団住宅から一般化したと言われている。構造は鉄筋コンクリート造でも、建物の内装は従来の長屋と同じで、畳敷きの和室、板張りの廊下、木の柱と漆喰塗りの壁で仕切られ、装飾的な要素を省いた質素な住まいだった。
木製の引き戸が多用されていることも当時の公団住宅の特徴と言える。2階の個室の窓は現在の一般的な住宅よりも窓の高さが低く、椅子座ではなく畳座の部屋として設計されている。階段側の壁には無双の地窓(写真参照)があり、通風を階段から確保する工夫であった。無双はガラスを使わない建具なので、近世の民家でも使われた伝統的な開口装置である。内装は質素でも採光や換気等の住環境に対しては、住まい手の目線で細かいところまで検討してあり、標準設計の質の高さを知ることができる。
無垢材を使った木製建具は現在では高価なため、UR都市機構の標準設計ではないが、当時の技術的背景では最も経済的合理性が高かったと推測できる。衛生設備は最先端の機器が入っていたことは既に述べたが、水洗便所の設置戸数は昭和33年当時は東京都区部でも人口のわずか4%強にすぎなかった。団地では標準仕様で装備していたことからも、公団住宅が住宅の衛生整備の向上を牽引していたことがわかる。
住宅不足を解消すべく開発された団地は、時代のニーズに応え、戦後の住宅事情に与えた影響は大きい。そして住戸を「広さ、間取り、設備性能」で判断する評価軸は、戸建て住宅も含めた指標へと伝播することとなった。しかしながら、経済性を優先した評価方法は、何か重要なものを見落としていると思うのである。団地も文化財に登録される時代だからこそ、改めて団地の住文化を知ることで、今後の持続性のある開発と住まいの在り方が見えてくるのではないだろうか。
北八王子の集合住宅歴史館は令和5年春に旧赤羽台団地(北区)に開館する情報発信施設に移転の予定である。国の登録有形文化財に登録された既存棟は、この情報発信施設の一部として現地で保存整備中とのことなので開館が楽しみである。
■参考文献
「集合住宅の源流を探る」集合住宅歴史館・UR都市機構 2019年
「日本住宅公団20年史」日本住宅公団 昭和50年
「日本住宅公団史」日本住宅公団 昭和56年
「多摩のあゆみ」173号 特集 多摩の団地 平成31年
「日野の歴史と民俗 133号」日野市郷土資料館 2011年