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桑都の養蚕民家 八王子長田養蚕/八王子市

  • 建物雑想記
  • 2023.05.30


八王子は古くから養蚕や織物が盛んな地域として知られている。織物市で賑わった八王子宿は「桑都」と呼ばれていた。特に幕末の横浜港開港後は、多摩地域の蚕糸業の中心地として大いに栄えた。その後、絹がレーヨンやナイロンに代わり、かつての賑わいが無くなっていたところ、令和2年に「霊気満山 高尾山 〜人々の祈りが紡ぐ桑都物語〜」として文化庁の「日本遺産」に認定されたのである。


今回は再び「桑都」として脚光を浴びている八王子市の養蚕民家・八王子長田養蚕を紹介したい。読者の皆さんは、また養蚕の建物と思われるかもしれないが、多摩地域の古い民家の大半は養蚕と関わっていたと言っても過言ではないほど、養蚕は身近な存在だったのである。さて、今回紹介する長田養蚕は現役の養蚕農家で、明治時代に建てられた主屋が、今でも養蚕に使われている。代表の長田誠一さんと妻の晶さんの二人で伝統的な手法を引き継ぎながら、丁寧に蚕を育てているのだ。「桑都」と呼ばれた八王子市でも令和5年の現在では唯一の養蚕農家となり(都内でも他に養蚕農家はないそうだ)、多摩地域の養蚕文化の生き字引的な存在となっている。

■四間型の完成形
長田家は八王子で代々続いている農家で誠一さんは12代目の当主となる。養蚕は生糸商を手がけていた8代目の五右衛門が始め、現在の主屋も五右衛門が明治18年に建てた養蚕民家である。屋根は金属瓦屋根に改修されているものの、建築当初は草葺屋根の民家で、屋根勾配も急だった。天井の低い中二階と小屋裏階の三層構造の建物となっていて、草葺屋根を昭和36年頃に撤去し、現在の形に葺き替えている。外観から二階(小屋裏階)の窓の下に大梁(民家では上屋梁という)の端部が出ているのが確認できるので、この梁の上に叉首(登り梁)が刺さり、当初の草葺屋根が構成されていたとことがわかる。断面図と間取り図を次頁に掲載したので、参照いただきたい。

建築当初の間取りは近世から続く四間型(いわゆる田の字型)の民家で、規模は桁行8間×梁間5.5間(約44坪)、土間境に30㌢角の立派なケヤキの大黒柱が立つ。土間は床面積の三割程度とやや狭く、床を広く確保した間取りになっていた。土間の南側には風呂があったことが聞き取りからわかっている。

ザシキの南側には外部扱いの縁側があり、雨戸を閉めることで防犯性を確保している。ザシキやデイの障子は後の改修でガラス戸に変更している。上部の欄間障子は建築当初の姿だ。一般的に雨戸をガラス戸に改修し、縁側を室内に取り込むことが多いので、長田家のように、昔ながらの縁側を見ることができる家は珍しい。縁側の天井は出し桁で90㌢程外に出ているので軒が深い。当初の縁側が現在でも残っているのはこの深い軒のおかげだろう。

縁側は「オク」の西側にも周り、同じような出し桁を見ることができるので、当初は南から西へ矩折りに出し桁が廻っていたと推測できる。出し桁の軒裏は天井を張った上質な仕様である。縁側は雨を凌げればよい場所なので、本来天井はなくても構わない場所。江戸時代は民家に天井を張ることを贅沢な仕様として、規制していた地域もあった。さらに「ザシキ」側の天井が通常の竿縁天井なのに対し、「デイ」側は竿縁が吹寄せになる凝ったつくりとなっているのだ。

長田家は四間型の間取りながらも、「オク」には床の間が設けられ、接客の部屋が用意されている。「デイ」の縁側の吹寄せ天井は「オク」へと客人を招き入れる玄関的な場所として造られたことがわかる。一方「ザシキ」は日常生活の場だけでなく、火炉があることから養蚕の作業空間であったことを、縁側の天井の意匠からも読み取ることができる。
身分制度による建物の規制のあった時代が終わり、美意識や客人への心配りを家造りに取り入れるようになった。富裕層の民家の特徴を見ることができる。



■養蚕民家
多摩地域では古くから養蚕が行われていたが、本田畑での作物の生産が主体で、養蚕はその合間に行う副業的な位置付けであった。横浜港が開港し、生糸や蚕種が主要な輸出品目となると、養蚕で大きな利益が期待できたため、養蚕に適した間取りに増改築したり、養蚕に特化した住まいに建て替えた。長田家も生糸商で成功し、養蚕民家に建て替えたと言えるだろう。

近世の民家との大きな違いは、中二階を設け、作業空間を三層まで積層させたことである。近世の民家でも中二階をつくり、上部空間を利用するケースがあったが、平家として建てられた架構に中二階を挿入したので、天井が低くく作業性が悪かった。長田家では中二階の天井高が1.8㍍以上確保されていた。余裕のある高さとは言えないが、最初から二階を利用することを想定した造りとなっていたのだ。また、当初の草葺き屋根の棟には、東西に細長い換気窓があったとことがわかっている。多摩地域の近世の民家は、棟に換気窓を設けることはなかったので、この換気窓も養蚕のために設置された設備であった。

蚕は気温の変化に敏感なため、気温が寒すぎても暖かすぎても飼育が難しい生き物である。近世の養蚕は清涼育と呼ばれ、温度管理を自然に任せた飼育方法であった。そのため蚕の発育に適した気温となる春が養蚕の季節となった。近代になると室内に火炉を設けることで、寒暖の影響を調節できるようになり、この飼育方法を温暖育という。そして清涼育と温暖育の長所を掛け合わせた折衷育が確立し、明治中期以降は折衷育による養蚕が普及した。長田家も火炉と換気窓の存在から、折衷育が行われていたことがわかる。

建築当初は主屋を蚕室として使い、小屋裏階が上簇(蚕が繭をつくる工程)の場となっていた。草屋根を金属屋根に葺き替えた時に、小屋組を作り直して屋根を床から1.5m程持ち上げることで、作業性がよく、明るく、風通しのいい小屋裏階となった。

その後、昔の小屋組の部材を再利用して主屋の脇に蚕室を建てた。外部階段を設けて別棟の蚕室から小屋裏階に直接行けるようにし、主屋一階での養蚕をやめている。主屋を現在でも上簇に利用できているのは、昭和中期に小屋裏階の作業性の改善と、養蚕の動線と主屋の生活動線を分けたことが大きい。


左上:小屋裏皆、現在も上簇に使用  右上:出し桁と軒裏、縁側の天井は吹き寄せの竿縁天井となっている。
左下:中二階、かつてはここも養蚕に使っていた  右下:縁側と戸袋:昔ながらの縁側が残る。雨戸閉めることで室内化できる。




■養蚕の環境を維持するために

このコラムでは養蚕が行われていた民家をいくつも紹介しているが、現役だった建物は一つも無く、大半の農家は戦後間もない時期に養蚕を辞めている。そのような中で、長田養蚕はさまざまな工夫をしながら、現在でも養蚕を続けているのだ。さらに、養蚕文化の普及活動にも力を入れている貴重な存在である。

養蚕を行うためには、蚕を育てる蚕室はもちろんのこと、餌となる桑も用意しなければならない。長田養蚕では現在、春蚕(ハルゴ)と晩秋蚕(バンシュウサン)の年二回、蚕を育てていて、それぞれ約三万頭を飼育しているという。桑畑を維持し、良質な繭をつくるためには桑畑の手入れも欠かせない。取材時も春に植える新しい桑の苗木が用意されていた。
しかしながら良質な桑を育てても充分ではない。蚕はデリケートな生き物のため、桑の葉に農薬等の異物が付いただけで死活問題となるのだ。良好な環境の維持も重要である。養蚕は蚕と桑、さらに周辺の環境が整って、初めて成り立つ産業なのである。

長田家が代々守り続けてきた農地も、現行の都市計画では市街化区域内の第一種低層住居専用地域となっている。このような状況は多摩地域では珍しいことではない。桑畑は現在は市街化区域内の生産緑地になっているので桑を育てている間は農地として維持できるとしても、近隣の宅地化を止めるのは簡単なことではない。周辺地域の理解と協力で、現在の環境がかろうじて維持されているのだ。

長田養蚕では養蚕の無事を願い、蚕室に養蚕守護の護符を貼っている。この護符は日本遺産に認定された桑都物語を構成する文化財の一つで、高尾山薬王院が頒布している御守りだ。桑都物語の紡ぐストーリーがこの環境を守ってくれることを願っている。

左上:蚕室の護符  右上:現在の蚕室、昔の小屋組の部材が再利用されている。
左下:蚕室の温度計「東京都蚕室連合会」  右下:桑畑 川を挟んで主屋の反対側に広がっている。



■参考文献
・八王子市文化財保存活用地域計画 2022年
・蚕にみる明治維新 鈴木芳行 吉川弘文館 2011年