国分寺崖線は武蔵野台地の南端に位置する河岸段丘で、崖上からの眺望がよいことで江戸時代から名所とされていた。中央線(甲武鉄道)が開通する明治後半は、多摩地域でも崖線沿いに富裕層の別荘が建てられるようになった。戦後は鉄道沿線を中心に宅地開発が急激に進んだものの、崖線沿いには樹木が残り、緑豊かな武蔵野を現在に伝える貴重な場所となっている。
2023年の春にJR東小金井駅から程近い、国分寺崖線上に大正時代に建てられたとされる邸宅があると、となりまちプロジェクト(武蔵野・三鷹・小金井の3市の市域を超えて、情報を紹介し、人が行き交う仕組みづくりを行っている団体)から連絡をいただいた。そこでイベントを企画中とのことで、その下見のお誘いだった。多摩地域に大正時代の邸宅が現存しているとなれば、是非拝見したいと思い、二つ返事で参加することにした。
■崖線上に佇む和風邸宅
駅から歩くこと15分、住宅街を抜けるとそれまでの風景が変わり、桜の古木に築地塀と瓦屋根の門扉が表れた。ここに違いない。携帯で位置情報を見ると、ちょうど武蔵野台地の端に位置していることが確認できた。期待を膨らませて敷地に入ると、予想を超える和風建築が佇んでいた。
大正時代の邸宅建築となると、東京都近代和風建築総合調査報告書(平成21年発行)に記載されているはずだが、それらしき建物は確認できなかった。不思議に思っていたところ、移築した建物であると所有者の大森崇立さんから聞くことができた。崇立さんの曽祖父が小金井の崖線沿いの土地一帯を取得し、昭和40年頃に中野区城山町にあった日本家屋を移築し、元の敷地は区立第九中学校になったとのこと。
小金井市に移築された時の建築確認台帳を調べると、昭和40年に新築とあり、移築も行政記録上は新築になっていたことがわかった。都の近代和風建築調査は昭和20年までに建築された建物を対象としたため、戦後に小金井市に建てられた大森邸はリストに入らなかったのだ。良質な大邸宅が東京都の調査対象から漏れてしまったのは、実に残念なことである。
大森邸は住まいの役割を終え、現在は撮影スタジオ「大森武蔵野苑」になっている。都心から程近いにも関わらず、3000坪もの広大な庭園と上質な日本家屋を合わせ持つ稀有な場所として、映画やCM等の撮影場所として活用されている。
■中村家住宅の和館を移築
中野区は大正・昭和時代のまちの景観を貴重な生活文化遺産と捉え、平成23年に「中野を語る建物たち/中野区大正期・昭和前期建造物調査報告書」を発行している。報告書は中野区の発展の歴史を、時代ごとに建てられた建物の特徴から分類し、調査・記録したもので、街並みを構成する建物たちを丁寧にまとめた一冊である。ここに移築前の手掛かりがあると期待された。私ごとで恐縮ながら、この報告書を担当した 協同組合伝統技法研究会の声かけで詳細調査に参加させていただいたご縁がある。
報告書によると、中野一丁目(旧城山町)に現存する中村家住宅の敷地の南側が売却され、区立第九中学校ができたことがわかった。敷地の旧城山町は武蔵野台地東端の野方台地に位置し、南東に開けた眺望のよい土地であった。元は望月右内が大正4年頃に敷地一帯を取得し、洋館と和館を建築したとのこと。望月は和歌山県出身の明治時代の衆議院議員で、東京電燈株式会社の取締役を務めた人物である。その後、昭和14年に紡績業を営む中村卓爾が敷地と建物を望月から購入した。そして、昭和30年頃に和館の建つ敷地の南半分を富士製鉄(株)に売却している。昭和41年にこの場所に区立第九中学校が移転してきているので、昭和30年から40年の間に大森家が和館を購入し、小金井市に移築したと考えられる。
中村家には土地を分割する前に描かれた配置図、鳥瞰図、平面図が残されていて、そのうちの鳥瞰図が報告書に掲載されていた。庭園を囲むように洋館を南向きに、和館を東向きに建て、高台からの眺望を楽しめる配置となっていた。ここに小金井市の大森邸と思われる和館を確認することができる。また、報告書の所見を担当した伝統技法研究会の伊郷吉信氏を通して、所有者の中村氏から報告書に掲載されていなかった残りの図面も閲覧することができ、この和館が小金井市に移築されたと確信することができた。ご両氏には、この場を借りてお礼を申し上げたい。
洋館と和館は、もともとデザイン性の異なる建物のため、意匠的な繋がりは無いと思われたが、ステンドグラスという共通点を見つけることができた。共に花をアレンジした優しいデザインで、同じ作者によるものと推測された。
■和館の配置と間取り
移築前後の和館を比べると、建物の向きが違うことに気が付く。当初は南東に開けた台地に建っていたため、東側の庭に面して和館が建てられていた。一方、小金井市では東西に走る国分寺崖線に合わせて、南に面して和館を配置することで、座敷からの眺望を確保していたのだ。
中村家に現存する敷地分割前の間取図と現在を比較すると、建物の基本的な骨格に変わりは無いものの、玄関や階段の位置が変わっていることが確認できる。当初は敷地の南東側(大久保通り方面)にあった表門が、小金井では崖線上の北側(連雀通り・東小金井駅方面)となり、玄関の位置も建物の北東に移されている。
大森さんによると、移築前から和館の北西(中野駅方面)に来客用の玄関があり、もみじ山通りから車で寄り付けることができたそうだ。階段や表玄関は中村邸の間取り図の位置にあったものの、表玄関の奥は移築前から洋間となっていて、当時から中村家に残されていた図面とは違う間取りとなっていたようだ。
1階と2階、共に廊下を介して左側に日常利用の個室、右側に縁側の廻る接客空間を配置した、中廊下式の間取りで、1階は廊下の左側に使用人室や水廻りが集中する裏方的な場所になっている。
客間部分はそのまま移築されていると推測され、1階は8帖と12帖半の続き間と4帖半が鍵状に並ぶ構成となっている。2階も同様の配置だが、15帖と4帖半の間仕切壁(けんどん式の襖)を外し、縁側の障子を開け放つと、35帖もの広間として使用することができる。これは2階からの眺望を楽しむための仕掛けと言えるだろう。
■近代和風住宅 大森邸
近代和風建築とは明治以降から概ね戦前までに建てられた和風建築のことで、日本の伝統的技法と近代の技術を併用し、近世の意匠を踏襲した建築の総称である。近代和風の延長に現在の和風があるため、一見普通に上質な和風建築のように見えるが、近世の建築と比べると違いは歴然である。
江戸時代は身分や階層によって、建物の規模や装飾に規制があったが、明治になると自由に建てられるようになった。事業で富を得た富裕層は、最上級の邸宅を建て、それに応えるように建築技術も最高峰に達した時代であった。大森邸は戦前に建てられた近代和風住宅を、戦後に移築した邸宅で、部屋毎に趣向を凝らした内装を見ることができる。2階の間取り図を掲載したので、参照いただきたい。
右側の客間は格式を重視した「真」の構えで、天井が高く蟻壁長押がつく。一方、家族利用の左側の部分は長押を省いた簡素な構成ながらも、自然木を巧みに取り入れた玄人好みの「草」の意匠となっている。中野区時代は料亭として使われていた時期があったとのことで、その時の間取りや意匠とも考えられ、定かではない。
近世と近代では建築材料や設備にも違いがあり、特にガラスと電気の影響は大きい。ガラスが無かった時代は、外部建具として障子と雨戸が使われていた。夜は行灯や燭台を灯したものの、電気に比べると暗く、部屋の過半は闇に包まれていたようだ。
雨戸しかなかった縁側にガラス戸が入り、縁側が室内空間となってサンルームのような広縁が誕生した。夏を旨にすべく造られていた日本の住宅が、冬の快適さを手に入れたのである。そして、電気が普及したことで、天井の中央に照明器具を吊るす電灯スタイルができあがった。この配置は最も合理的に部屋を明るくする方法であり、意匠性や習慣から決まった配置ではない。しかしながら、明るいことが「近代」とされ、近世から続いた日本家屋独特の陰影が消滅したことは周知の通りである。
近代和風建築は上質という側面で注目されることが多いが、明るさと室内環境を制御できるようになったことを鑑みると、和風建築の完成形と捉えることもできる。
■貴重な歴史的建造物
国分寺崖線沿いは高台からの眺望の良さから、別荘が多く建築された。小金井市のハケの道界隈もその例外でなく、大正時代から昭和初期まで医師や実業家等が邸宅を建てていたものの、それらの邸宅建築はいつしかなくなり、跡地の樹木が、かろうじて当時の様子を伝えている。
大森邸は今回の取材から大正時代に建てられた和館(近代和風住宅)を昭和40年頃に小金井市に移築した建物であることがわかった。建築当初から基本的な間取りを変えずに移築し、現在に至ることも判明した。そして、近代和風住宅の特徴を維持しながら、電気や水道等の建築設備を移築時の最先端の仕様に改修しているところも大森邸の特筆すべきところである。
和館の移築は社寺仏閣を得意とする梅谷工務店、庭園は飯田十基に師事した星進が担当したとのことである。高台からの眺望を重視した配置とするなど、崖線沿いに建てられた近代の邸宅文化を現在に伝える貴重な建物と言える。
※この記事 は「多摩のあゆみ」191号、192号の建物雑想記を伝統技法研究会の会報「伝統技法」への掲載用に再編集したものです。