「近代和風建築」 啓明学園北泉寮 昭島市
- 2007.02.01
北泉寮を初めて訪れたのは去年の早春のことである。北泉寮保存会の方々の案内で建物を見学する機会をいただいたのだ。学校の門としては珍しい和風の門を通って、鉄筋コンクリート校舎に挟まれた広場を抜けると広々とした芝生の中に大きな数寄屋建築が凛と建っていた。北泉寮という言葉から想像される建物はとはあまりにも違っていたので、驚きと感動が入り交じった不思議な出会いだった。建物の内部もそれは素晴らしい設えで、どこかの大邸宅に迷い込んだような気分で、見学中は学校の建物であることを忘れてしまう程であった。
なぜこのような上質な木造建築が学園の中にあるのだろうか?北泉寮の歴史をちょっと振り返ってみよう。啓明学園の北泉寮は鍋島直大侯爵(旧佐賀藩藩主)の邸宅として明治25(1892)年に千代田区の永田町に建てられた物である。関東大震災後鍋島邸の和館部分を三井八郎右衛門が買い取り、昭和2(1927)年に三井家拝島御別邸として多摩に移築した。そして昭和18(1943)年に拝島別邸の土地と建物が三井家から啓明学園に寄贈されたのである。その後北泉寮は学園の建物として今日まで大切に維持管理されているのだ。
ちなみに啓明学園は昭和15(1940)年に三井高維の私邸を開放して、海外に勤務する方々の子女教育のために創立されたのがその始まりである。
北泉寮のように明治以降に日本の伝統的技法及び意匠を用いてつくられた建物を特別に「近代和風建築」と呼び、普段我々が扱っている一般的な木造建築の「在来建築」とは区別されている。今回はこの「近代和風建築」について掘り下げてみたいと思う。
まず時代背景としての「明治以降」というのが一つのポイントになっている。江戸時代は藩政により建築制限が行われていたので、建築の装飾や規模が身分によって分かれていた。それが明治時代になると、皆民平等の元に誰もが予算をかければ自由に建築を造れるようになった。正に市場が開放された状況となった。今まで制限されていた上級武家の格式のある住宅や明治という時代を反映した洋館を、資産階級がこぞって建てるようになり、それに呼応するように職人が腕を競い合って上質な建築を生み出して行ったのである。その後の日本の住宅における床の間のある「和室」と応接セットのある洋間のイメージもここらへんにルーツを辿ることができるのではないだろうか。
そして日本の木造建築技術がこの時期に最高峰に達したと言われている。職人の技、かけた時間、材料どれを取っても現在のお手本となるものばかりである。
では、現在でもそのような状況の延長上にあるかと言えば、残念ながら時代は変わってしまった。ここに「近代」と「現代」いう時代の断絶があるような気がするのだ。職人がコツコツと手間をかけて建築と向かい合うことが可能だった、手造りが当たり前だった時代に建てられた建築が「近代和風建築」なのである。
「近代」の終わりが何時なのかは様々な見解があるが、狭義には戦前まで、広義に見ても高度経済成長期の前までのわずかな期間ということができるだろう。今では当時の卓越した技術を再現するのが難しいだけでなく、当時のような良質な国産の材料を入手するのも困難な状況になっている。
さて、近代和風建築と言ってもどのような建物の事を指すのか。一般的には次のように分類することができる。
(1) 旧公家又は武家屋敷の流れを汲むもの
(2) 商家を中心とした市街地の町屋建築
(3) 醸造業などの複合建築
(4) 旅館、料亭、飲食店などの接客型大建築
(5) 地元有力者や新興資産家などの邸宅
(6) 神社及び新興宗教の建築
(7) 近代になって成立した新機能の建築
北泉寮は(1) 及び(5) に当てはまる建物で、特に鍋島直大侯爵が明治天皇の行幸に合わせて邸宅を建てている背景を考えると、近代和風建築の中でも最上質な建築である。建物の質的には、上野にある旧岩崎邸(重要文化財)の和館に匹敵するレベルの物と言えるだろう。旧岩崎邸の洋館は当時の状態で保存されているのに対し和館は湯島地方合同庁舎を建てる時に大半を解体してしまっている。一方、北泉寮の方は和館のみが拝島に移築されているので、和館が当時の状態のまま残っている近代和風建築として重要な建物ではないだろうか。
また、(1)、(4)や(5)に見られる特徴として「和風」な建物の配置がある。外国の邸宅は左右対称な中心性のある配置が多いのに対し、日本の邸宅は桂離宮に見られるような雁行配置が特徴で、配置に軸が無く建物からの視界が庭に対して開放的である。そのため建物が庭に対して横長になる。北泉寮も例外ではなく、庭園側の主要な居室は雁行してどこからでも庭が楽しめるように配置されている。
その他、このコラムで以前紹介した御岳山小高邸(No.1)は(6)、青梅の建築群(No.2)と、八王子上恩方郵便局(No.3)は(7)、沢淵の文化住宅(No.4)と三楽荘(No.7)は(5)に分類できる。多摩地域で日常的に利用することが出来る近代和風建築としては、(7)に入る高尾駅、日野駅、御岳駅等のJR駅舎を挙げることができるだろう。このように当時建てられた良質な建物は全て該当すると言っても過言ではない。逆に言うとそれほど高度経済成長期以降に建築の作り方が変化したということである。
明治以降に建った建築物では、その時代の象徴性から洋式建築や洋館がいち早く注目され、学術的な研究や保存・再生活動が盛んに行われたが、近代和風建築は目新しさに欠けることもあって、あまり取り上げられる事がなかった。実際、洋風建築に比べると数も多かったので、珍しくない建物だったと言えよう。しかしながら、戦後60年以上経た現在では、数多く残っていたはずの近代和風建築も気がつけばほとんど無くなってしまった。このままの状況では近い将来は町並みから消えて行ってしまうであろう。
このような状況の中で最上質の近代和風建築である北泉寮が当時の姿のままで、これほどの規模で残っているのは奇跡に近い。今後も日本の近代建築文化の伝承の場として、末永く維持管理していって欲しい建物である。
■参考文献
・ 四季 北泉寮 北泉寮保存会 学校法人啓明学園
・ 図解・近代日本住宅史 鹿島出版会
・ 洋館付き住宅の魅力がわかる本 よこはま洋館付き住宅を考える会