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「旧檜原郵便局 旧名栗郵便局 旧大久野郵便局」

  • 建物雑想記
  • 2007.08.01
旧大久野郵便局
今回訪れた建物は多摩西部の山間にある郵便局建築だ。旧檜原郵便局と旧名栗郵便局は昭和4年、旧大久野郵便局は昭和10年と、共に昭和初期に建てられた洋館建築である。

街中の郵便局は明治から大正期ともっと早い時期に建てられているが、その分、時代の流れも速く、解体または焼失してしまって今では見る事ができない。多摩の山間部に建ったこれらの局舎は、郵便局という役目を終え紆余曲折を経ながらも当時の姿をとどめている(現在建っている旧檜原郵便局は、移築・復元された建物で、詳しくは「洋館への誘い」を参照されたい)。以前ここで紹介したことのある上恩方郵便局(ここは現在でも現役の郵便局である)も昭和初期の建物で、やはり洋館の外観を持った建物である。
建物雑想記 郵便局1
これらの郵便局のある地域は現在でも数多くの和風民家が残っている場所で、昭和初期という時代に洋風の外観を持った郵便局が完成した時にはさぞかし一大事だったに違いない。中央からの近代化の波が、郵便局を通じて山間部にも目に見える形で出現した出来事だったと言えるだろう。このような現象は多摩地域に限ったことではなく、郵便局建築は時代を先取りした洋風のデザインで全国に建てられていたようだ。

洋風の外観と言っても、都会に見られるような建築士による様式建築とは違い、個性的なデザインとなっている。旧檜原郵便局と旧大久野郵便局は共に南京下見板の外壁材で張られた建物で同じように見えるが、窓に違いがある。前者が両開き窓なのに対して、後者は上げ下げ窓になっている。縦長の洋風窓のプロポーションをいかに造るか、こういうところから大工のこだわりを感じ取ることがきる。

旧名栗郵便局はとにかく「すばらしい」と言いたい。洋風要素の左右対称のデザインは押えられているものの、窓の大きさや形は決して美しいフォルムとは言えない。それでも、洋館と言えてしまうのは、左官屋の仕事に依るところが大きいだろう。芸が細かいのだ。窓枠の曲線などはアールヌボーを意識したのではないかと思ってしまうが、多分これは僕のこじつけにすぎないだろう。洋風に見せるために知恵を絞った結果生み出された、オリジナルなデザインだと考えた方が妥当だろう。そういう時代なのである。

今回取り上げた郵便局はいずれも郵便局としての役目を終えた建物だとお伝えしたが、現在の郵便業務はそれぞれの新しい局舎で行われている。明治維新後にスタートした郵政事業を担う建物としてセンセーショナルなデザインで登場した局舎が、その後どうなったのかについても少しふれておきたい。

檜原村郵便局は村役場に付属した都会的なモダン建築になった(構造は村役場と縁が切れているようだが、見た目は一体になっている)。建物の機能性を重視したシンプルなデザインで、以前のような愛らしい局舎のイメージはなくなってしまっている。

大久野郵便局は旧局舎の隣に地場産の杉材を使ったログハウスとして新しく建てられた。木造には様々な建て方があり、昔ながらの日本の伝統構法や在来構法、アメリカから入ってきた2×4構法、そしてこのログハウスのような北欧やカナダに構法のルーツを辿ることのできる建て方である。この構法の特徴は柱や梁だけでなく、壁までを骨太の木材で構成するので、使う木の量も半端ではない。地域の産業である林業を表に出したデザインで、昭和初期の洋館に匹敵するインパクトがある。
建物雑想記 郵便局2
名栗郵便局は瓦屋根の乗った木造の和風建築として新築された。ここは先代の趣向を凝らした局舎のイメージとは打って変わって、風景に埋もれてしまいそうな普通の建物となっている。郵政事業の発足から一世紀を経て、郵便局の存在も人々の生活にすっかり溶け込んだ今は、シンボリックな意匠はもはや必要ないのであろう。町並みに同化した、地域の郵便局といった印象を受ける。地味だが親しみ易い外観である。

昭和初期に同じ方向性のデザインで建てられた郵便局だが、三者三様に建て変わった。建物のデザインによる差異が使う側に何らかの影響を与えるのかどうか、そして今でも現役の洋館郵便局である上恩方郵便局はどの方向性に向かうのか、建築設計に携わっている者として多いに興味のあるところである。

国の登録有形文化財について以前このコラムで紹介したことがあるが、今年度最初の登録の結果が五月の官報で告示されたので、その内容を紹介したい。文化財登録制度は国や市町村の指定文化財制度よりも選定条件が緩く、築50年以上経った歴史的建造物で、保存及び活用が必要とされる物を登録することにより、建物の存在を周知することを目的とした制度であった。平成17年12月現在の東京都の登録件数を本稿No.06に紹介したが、当時の193件が平成19年五月現在で213件とわずか20件しか増えていなかった。多摩地域に限ってみれば、三鷹市が2件増えただけで、多摩西部の市町村では依然登録件数は〇件のままであった。

登録数が増えないのは登録に値する歴史的建築物が無いからではなく、登録手続きを進める国や市区町村の職員が少ない等、行政側の体制に余裕がないということも、ようやく分かってきた。「登録有形文化財建造物5000件記念シンポジウム」で今後全国で五万件の登録を目指すと文化庁が述べていたので、正に近代建築の救世主のような制度だと考えていたが、残念ながら今のところあまり期待できそうもない。

多摩の市町村の文化財リストを見る限り、多摩は近代建築の空白地のように思えたが、このコラムの取材を通して良質な近代建築(歴史的建造物)が多く残っていることを改めて実感している。ここで紹介した建物は、文化財の指定や登録とは直接関係していない建物ばかりだが、登録有形文化財に十分なり得る存在である。そして文化財の有無に関わらず、所有者や使用者の意思で建物がきちんと維持管理されていることも知った。やはり良質な建物を維持し、町並みを守るのは、その建物や町にかかわっている一人一人の意識にかかっているのである。大切に使い続けられている多摩の名建築を今後も追っていきたいと思う。