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「日野宿蔵模様」 日野市

  • 建物雑想記
  • 2011.05.01
甲州街道の旧日野宿を散策すると、現在でも蔵づくりの建物を見かけることができる。昔はそれぞれ大切な用途があり、生活に欠かせない存在だったことが想像できるが、今では主屋との関係も絶たれ、ひっそりと街道沿いに佇んでいるものが多い。今回はそのような旧日野宿に現存する四棟の蔵を概観してみた。残念ながらどの蔵も正確な建設年月が定かではないが、所有者の聞き取りから関東大震災以前から建っていることが分っており、中には江戸時代に建てられた可能性のある蔵も存在している。
旧日野銀行
旧日野宿の東側(新宿寄り)に位置している有山(董)家の蔵から見て行きたい。この建物は蔵というよりも「洋館」と言ったほうがしっくりといくかもしれない。街道沿い鎮座する建物なので、前を通るたびに気になっていたが、今回ようやくその謎を解くことができた。実はここは旧日野銀行の店舗だった建物なのだ。建築は明治30年頃で、当時は一般的な土蔵造りの店蔵だったが、関東大震災後に現在のような洋風の外観に改修されたとのこと。確かに建物のプロポーションや窓の形は土蔵そのものであるが、改修時に付加されたエントランスの車寄せ部分が西洋古典様式を詳細にデザインしているので、全体として洋館のイメージを彷彿させているのだ。車寄せの柱頭部分はギリシア建築のコリント式をイメージしていると思われる。切り妻面の彫刻も柱頭と同じく植物の葉をモチーフにしたデザインで統一されていて、正当な洋館のエントランスがここにあるのだ。今までこのコラムで数多くの洋風建築を紹介してきたが、西洋古典様式という切り口で見た場合、この建物の右に出る意匠はないだろう。建物のステイタスを様式建築の意匠に求めた時代の好例として貴重な存在である。現在は閉店中だが、何時の日かエントランスの扉が開くことを願っている。

甲州街道に沿ってさらに西に進むと、駐車場の中に取り残されたように建っている大谷石張りの蔵がある。この蔵がなければ、あと二台分は多く車が停められたと思うが、敷地を駐車場に整備しながらも蔵を残した所有者は素晴らしい。この建物は土方(覺)家の蔵で、大谷石で覆われているので石蔵のように見えるが、元々は土蔵だったそうだ。建設年月はわかっていないが、関東大震災後に現在のような石張りに改修されたとのこと。有山家の蔵との大きな違いは屋根の構造にある。この建物は土蔵としての防火性能に加えて断熱機能も高められた構造になっているのだ。左官の屋根の上に通気層が設けられ、その上に雨を凌ぐ屋根が架けられている。このような屋根を「置き屋根」という。通気層を持つ二重屋根なので、夏の室内の温度上昇を押えることができるのだ。
日野蔵2
この蔵でもう一つ着目したいのは、大谷石張りの意匠だ。切り妻面を見ると、軒の高さの水平線が回り込んだデザインになっているのがわかるだろうか。通常の日本の蔵ではこのような意匠にはならず、破風の斜め線は軒でスッキリと止まる。西洋建築では切り妻面を三角形と捉え、ここを「ペディメント」と呼ぶが、恐らくこの「ペディメント」を意識して大谷石を張ったのではないだろうか。日本の蔵の妻面よりも、軒の線が強調され、陰影の深い表情になっている。
建物雑想記 渡邉家蔵
日野駅前郵便局の隣に白いバルコニーが印象的な蔵造りの建物がある。渡辺家の店蔵だ。この蔵は2010年に東京都選定歴史的建造物に選定されている。渡辺家の蔵は江戸末期から明治の初期に建てられた土蔵造りの店蔵だったが、やはり関東大震災の影響を受けて昭和5年に、現在のような大谷石張りになった。切り妻面を見ると、土方家の蔵と同様「ペディメント」のような意匠が施されている。大谷石の蔵では珍しくないデザインだが、少しでも洋風に見せたいというこだわりが感じられる。幾何学模様をモチーフにした白いバルコニーも、震災後の改修時に付け加えられたとのことだが、他に例を見ないモダンなデザインで、現在でもその魅力は廃れていない。これは蔵の所有者である渡辺良勝氏が定期的に維持管理を続けているからである。平成の修繕工事では屋根の軒の出を伸ばし、ベランダを雨から守る工事を行っている。昔の写真と見比べると、軒の出が伸びているのか分るが、既存の材料に合わせて工事をしているので、その旨指摘されないと分らない程、しっくりと修繕されている。蔵と対話をしながら、愛情をもって取り組んでいる様子が伝わってくる。その場所に建物が存続しているということは、その建物をずっと維持している所有者がいるということを改めて実感した。

今まで三棟の蔵を見て来たが、共に土蔵を震災後に洋風に改修している点が興味深い。昭和初期に日野の街で、洋風化とモダン化というデザインの転換点が訪れていたことが確認できる。この流れは大正天皇陵が八王子にできたことによる甲州街道の整備や、仲田地区にできた蚕糸試験場の影響もあったと考えられるのではないだろうか。いずれにしてもこの時期に日野の街が活気づいていたことは間違いない。

最後に訪れたのは、日野駅から程近い旧日野宿の西端に位置する木村家の店蔵だ。ここは「ギャラリー&カフェ・大屋」として現在でも現役の建物で、築後120年以上経っているとされている。「大屋」はここが店蔵だった時代の屋号で、当時はお米等を扱っていたという。外観は現在の素材で改修されているが、内部は昔ながらの空間がそのまま残されていて、当時の店蔵の雰囲気を味わう事ができる。土間と板の間の境に立つ柱には床から天井へと伸びる溝が彫られ、人見梁には回転して引出すことのできる平金物が付いていることから、昔はここに揚戸があったことがわかる。揚戸は店蔵特有の間仕切り装置であったが、ガラス戸が普及すると、次第に造られなくなった建具で、揚戸の溝が残っていることからも、この店蔵が明治時代に建てられたであろうことが予測できる。
揚げ戸
旧日野宿にはここで紹介した以外にも、蔵造りの建物がいくつも残っている。開発の激しい中央線沿線の駅前で古い蔵が点在するのは、やはり所有者が壊さずに維持管理に努力をしてきた賜物だろう。街の中に歴史ある古い建物を見かけると、心が和らぐのは私だけではないだろう。明治、大正の建築と聞くと、自分の生活とは縁のない存在と考える方もいると思うが、決して遠い昔の存在ではない。店蔵の建った時代の延長に現在があることを再確認することで、次の時代へのヒントが見つかるのではないだろうか。

【参考文献】
東京の近代洋風建築 1993年3月 東京都教育委員会
日野ニュース 2010年6月20日号 日野ニュース社