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「コンクリートの塔」新立川航空機 立川市

  • 建物雑想記
  • 2011.08.01
多摩都市モノレール高松駅の北東に円形の塔が建っているのをご存知だろうか。車で通り過ぎてもしっかりと認識することができるほど存在感のある建物なので、記憶にある方も多いと思う。この円形の塔は給水塔だったと聞いているが、壁には四方(円形なので正確には六方)に規則正しく窓があり、通りから見る限りは給水施設というよりは四階建てのちょっと変わったビルで、「水」が主役の建物とは思えないのだ。今回はそんな気になる建物を紹介したい。
建物雑想記 立川航空機給水塔
円形の塔は現在、新立川航空機株式会社の敷地内にあり、やはり昔は給水塔として使われていたそうだ。当時はそれ以外の用途もあったようだが、今となっては定かではない。現在は給水施設としての役目を終え、敷地の端にひっそりと建っている。今回は不動産部の浅見さんの厚意で給水塔の中まで入ることができた。給水塔は昭和13年(1938年)建築とのことなので、戦前の立川飛行機時代の建物だ。余談だが、通りを挟んで北側に位置する立飛企業にもほぼ同じ形の給水塔が現存しており、立飛企業中央門近くの守衛小屋越しに見ることができる。新立川航空機と立飛企業は現在は別の会社となっているが、母体は同じ立川飛行機だったことをこれらの給水塔の存在からも確認できる。
鉄の扉を開けて塔の中に入ると、円形壁面の美しい空間が広がる。最近ペンキを塗り直したようで内装も綺麗だ。引退した建物にもかかわらず維持管理が行き届いていて、施設を大切に扱う企業の姿勢が表れていた。柱や梁の構造体は外部に露出させた設計になっているので、室内に柱型が出っ張ることなく内部空間を有効に利用する工夫がされている。室内には中心に円柱が一本伸びていて、上部の床荷重を支えている。円柱の天井部分は上階の床を支える方杖がじょうごのように逆円錐円形になっており、円形の平面ならではの合理的な構造になっていた。上階に上がるに従って円形平面の直径が小さくなり、建物自体も円錐に近い形になっているのがわかる。部屋の広さは一階が半径約4.2mなので55m2程度、二階の半径が3.9m、三階が3.7mメール、一番狭い四階でも3.5mで38m2(12坪)あるので、部屋としても十分に使える広さがある。四階の上に給水槽が設けられており、ベランダから外梯子を伝って行くようになっているが、流石にここは登るのを断念した。給水槽は四階の天井高さと同じくらいの高さで、塔の全体規模と比較すると大した容量ではない。
給水塔間取り図
給水槽の階を五階とし、この塔を五層の塔として、そのプロポーションを見ていきたい。上階に従って平面形が小さくなることを「逓減」と言うが、一階の柱間寸法(平面形の両端の寸法)を「1.0」とした時の最上階の柱間は日本の五重塔では0.6から0.7とされている。法隆寺などの古い塔ほど逓減が大きく、近世の塔は逓減が小さい傾向にある。この給水塔の逓減を計算すると0.8となり、近代の鉄筋コンクリートの塔は、より逓減が小さくなっているのがわかる。時代がさらに進むと建築技術の発達と土地の制約から、最上階が一階よりも大きい頭でっかちな塔も出現するようになるが、見た目も安心感のある形は、逓減が1未満の塔となるのは言うまでもない。そのような視点で新立川航空機の塔を改めて見ると、理にかなった絶妙な逓減から、構造美を感じ取ることができる。
塔の逓減図
塔の内部には外壁沿いに緩やかな螺旋を描きながら上階へと登る階段が設けられている。正面入口を入って左回りに登り、四階部分で外壁を一周して登る位置関係になっていた。階段室は壁式構造になっているので、床、壁、天井がコンクリートで囲われ、狭い塔の中を登っているような錯覚に陥る。閉塞感を和らげるだめだろうか、階の踊り場付近に進駐軍が描いたという壁画が残っていた(前掲の連載、伊藤龍也氏の「洋館への誘い」の写真を参照してください)。最上階の四階は階段室が北東側で、南西の立川飛行場の方角が窓となるように配置されていた。これは単なる偶然ではなく、明らかに飛行場を見るための窓と考えるのが妥当だろう。塔への入口、螺旋階段の登り始めと四階の登り終わり、そして窓から見える風景、これらを緻密に計算し設計していたと言えるだろう……。この部屋の用途は読者の皆さんの想像にお任せするとして、外に出て塔の外観を改めて見てみたい。
今まで給水塔を大通り沿いからしか見ていなかったので、この塔が正面性の無い建物だと思い込んでいたが、通りとは反対側に入口があり、裏からは予想していなかった愛らしいファサードがあった。特にバルコニーのデザインは目を見張る物があり、給水槽への登る外梯子の踊り場と跳ね出した床の曲線は飛行機の尾翼を彷彿させ、動きのある構成になっている。洗練されたデザインとは言い難いが、構造的な合理性を追求しながらも、それだけでは終わらず、建物として遊び心が感じられる外観となっている。

戦後、鉄筋コンクリートの建物は数多く造られるようになるが、戦前と高度経済成長以降では建物から感じ取れる雰囲気が違うような気がしてならない。様々な要因があるとは思うが、建築を取り巻く社会構造が変わったことが一番大きな要素ではないだろうか。戦前は物づくりに関わった人達が、いい物を造るのだという心構えで建てていたのに対し、後者は管理された基準や予算等の枠の中で可能な物を造っているような気がする。例えば建物の耐震基準を例に取ると、現在の基準は昭和56年に改正された新耐震基準に基づき設計が行われているが、この給水塔の建った昭和13年は、建築基準法すら施行されてない時代なので、耐震基準自体がまだできあがっていない。しかしながら大正12年に関東大震災を経験しているので、地震に強い建物の設計し、施工するために各々が真剣に取り組み、その結果しっかりとした建物が建った。現在ももちろん建設現場は皆頑張ってはいるが、予算と諸々の基準をクリアさせることが大きな目的となっているのが現状である。最低限の品質は保たれるようになったものの、本当にいい建物もできにくくなっているのではないだろうか。
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小平市にあった旧陸軍の給水塔は市民に惜しまれつつも2004年に解体撤去された。解体の理由は「耐震上危険」との判断だった。戦前の建物なので即耐震上危険と思われがちだが、長い間手入れされずに放置された結果、躯体に水が浸入して損傷し、耐震性が低下したことが根本的な原因と推測できる。立川飛行機の給水塔も同じ時代の建物なので、築70年以上にもなるが、東日本大震災でも目立った損傷もなく耐えていた。最初にしっかりとした建物を建て、そして定期的に維持管理することで建物を長持ちさせることができる。当たり前のことだが、この給水塔から学ぶことは多い。