善福寺に現場がある関係で、今年は吉祥寺駅周辺を歩く機会が増えた。現場は吉祥寺駅から徒歩30分弱かかる場所だが、バスを使うことは稀で、歩いて通っている。吉祥寺は繁華街だけでなく住宅街も魅力的で、長く歩いても苦にならない街だ。中央線沿線の多摩地域の主要な駅前は大正12年の関東大震災以降、急速に発展した。住宅街の形成も下町とは違い、大きな敷地に文化住宅が建てられ、学者や企業の社員が多く移り住んだと言われる。それから80年以上の歳月を経て、閑静な住宅街はより熟成され現在に至る。
吉祥寺駅から5分程歩くと五日市街道に出るが、駅からこの街道までが繁華街で、街道を境に北側にゆったりとした住宅街が広がる。今回紹介する建物は街道沿いに建つ「池田石材店」だ。石材店だけあり、外観は石積み風の立派な造りになっている。街道に面した間口はわずか二間しかないが、奥行きが六間程あり、長手方向に縦長の窓がリズミカルに配置されていて、洋館としての完成度も高い。駅から現場への道のりではなかったが、いつもとは違うコースで帰った時にたまたま見かけ、それ以来洋館の前を通ることが楽しみの一つになった。
多摩のあゆみで取材できないだろうかという思いが募り、白い玄関扉を叩くと、池田石材店の池田大さんが二つ返事で快諾してくれた。そして夏のうだるような暑さの一段落した、お彼岸明けが取材日となった。
この建物は大さんの曾祖父池田豊氏が大正13年に石材店として建築。現在は大さんと、祖母の一枝さんの二人で店舗兼住宅として住んでいる。曾祖父の豊氏は宇都宮市大谷の出身で、大谷の実家も現在でも石材商を商っているとのこと。大谷と言えば、もちろん大谷石、現在ではあまり一般家庭では使われなくなってしまったが、当時は住宅の塀などによく使われ、池田石材店も当初は大谷石を中心に扱っていたようだ。
筆者は学生時代を宇都宮で過ごしたので、大谷石には特別な想いがある。ちょうど入学をした年に大谷の陥没事件があり、宇都宮市内の地下深くから掘り出している石であることを、強烈なインパクトを持って知ったのである。また大谷石は地場で産出されている石ということもあり、大学でも通路の敷石、ベンチや花台なども大谷石でできおり、大谷石の石蔵も大学の内外でよく見かる身近な素材だった。
大谷石は大谷地区で採れる凝灰岩で、熱を通しにくく耐火性に優れた石である。柔らかく加工性が良く、地元では蔵の壁材として、昔から使われたが、庭や塀の石として広く知名度を上げたのは、大正時代に入り鉄道等の輸送手段が整ってからである。また大正12年の関東大震災で都心部一帯が被災し、大谷石の需要が増えたことも挙げられる。池田石材店がこの地に開業するのもこの時期に当り、満を持しての多摩進出だったのではないだろうか。
東京での大谷石の人気には、もう一つの要因があったとされる。建築業界で大谷石と言えば、建築家フランク・ロイド・ライトである。大谷石が地元で蔵の壁材として使われていたことは既に述べたが、それ以上に積極的に使われることはなかった。ライトは代表作の旧帝国ホテルで大谷石を装飾材として多用し、近代建築の建築材料としての新たなデザインの潮流を作り出したのであった。旧帝国ホテルは大正12年9月1日の竣工日に関東大震災に被災するが、周辺の建物が倒壊する状態であったにも関わらず、ほとんど損傷しなかった。このエピソードは「地震に堪えた旧帝国ホテル」として広まり、さらには大谷石が耐震性に優れた素材であるという尾ひれも付き、大谷石は関東大震災を機に、「火事」だけでく「地震」にも強い材料として需要が増えたと言われている。
ライトはその後も大谷石を使った多くの傑作を日本に残した。ライトに学び、影響を受けた建築家も大谷石を使った建築を多数建てている。多摩のあゆみ133号で紹介した自由学園はライトの弟子である遠藤新による設計で、やはり大谷石がうまく設計に取込まれている。ライトの直接的な影響はなくても、大谷石を使った洋風な意匠はその後、職人の手により庶民建築に花開していったと考えられる。
さて、そのような時代背景を思い浮かべながら池田石材店を見てみると、時代を先取りした洋風石材店としてデザインしているのがわかる。街道に面したわずか二間の間口に、かなり密度の濃い意匠を施しているが、建物自体が石材の施工例まで兼ねていることを意識したデザインであろう。正面の窓は教科書通り縦長の上げ下げ窓が入っていて洋館としてのファサードを引き締めている。出隅のモザイク石張りの独立柱もアクセントとして機能していて、絶妙なバランスだ。
石の使い方として興味深いのが、玄関ポーチの天井だ。なんと天井にも大谷石張りによる装飾が施されているのだ。しっくりと収まっているので、この凄さを見過ごしてしまいそうだが、重い石材をわざわざ天井に使うところが、素材だけでなく確かな技術力を備えていたことが伝わってくる。天井に使われている大谷石は極めが細かく「みそ(茶色い柔らかい部分)」の少ない石で、一方、同じ大谷石でも、雨のかかりやすい脚部には「みそ」の多い粗い石で造られている。「みそ」が多い方が雨に強いとのことで、適材適所に石が使われているのがわかる。
このようなハイカラな石材店が街道沿いに建ったとなると、さぞかし目立ったに違いない。このコラムでは130号でも昭和初期に建てられた文化住宅(吉祥寺東町、旧蔭山邸)を紹介しているが、この住宅の門柱が、池田石材店の独立柱の意匠にそっくりだったのだ。大谷石の塀や門扉は多くの住宅で造られているで、同じ町内だからといって池田石材店が関与したとは言えないと思うが、少なくともこの建物の存在が街に対して影響力があったと想像できる。
吉祥寺の街歩きを検討されている方は、この池田石材店を観察してから散策を始められてはいかがだろうか。きっと、目が肥えて、さまざまな発見に出合えるだろう。
「池田石材店」吉祥寺 武蔵野市
- 2012.11.01